『レッド・サン』(Red Sun)['71]
監督 テレンス・ヤング

 積年の宿題だったワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト['68]を先頃ようやく観たこともあって、ブロンソンの出演している本作を観直してみた。十代の時分に東宝宝塚で観たように思うが、その時分の観賞作は、記録には残っていない。

 オープニングが同じように大陸横断鉄道の駅であったことを覚えてなくて驚いたが、改めて、トレードマークの髭のあるなしに違いはあっても本作のリンク(チャールズ・ブロンソン)の食えない人物造形は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』のハーモニカと同じではないかと思うとともに、「ワン・モスキート(瞬殺)…ノー・モスキート!」の黒田十兵衛(三船敏郎)とリンクの奇妙な結びつきが、ハーモニカとシャイアンの関係を彷彿させるようなところもあり、さらには、ヘンリー・フォンダではなくアラン・ドロンがばりばりの悪役としてゴーシュを演じている点でも、通じているように感じて興味深かった。

 その『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』では、クレジットのトップがクラウディア・カルディナーレであったことからすれば、ゴーシュの愛人娼婦クリスチーナを演じたウルスラ・アンドレスが二番手だったのは、エンディングの違いからすると、二番手でも破格のように感じたのだが、そこにも『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』が影響しているのでは、との勘繰りが湧いてこないではいられなかった。だが、骨格が似てはいても、日本のサムライを登場させていた本作は、主題的には“消えゆく者ども”を描いたものではなく、“新たに現れた異文化との邂逅”だったような気がする。

 オープニングで、1860年の日本からの公式使節訪米から十年とされた明治3年は、ちょうど明治政府による廃刀令の出された年だから、日本側には『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』的な“消えゆく者ども”があって、黒田十兵衛の台詞にも「いずれ武士もみな農民か漁民になるのだ」とストレートに表現されていたのだが、映画作品としては、やはりリンクの価値観を変え、もうカネはどうでもいいとまで言わせるに至った黒田の武士道との出会いの物語だったように思う。

 それにしても、宝刀を吊り下げた最後の場面は、なかなか目を惹く印象的なカットで、記憶にもあったのだが、まだ汽車が電化されていない時代のあの架線は、いったい何のためのものなのだろうとふと思ってしまった。すると、ネットの映友たちから、あれは電信の架線だと思う。当時の電報は駅でやりとりすることが多かったらしいとか、いろいろな映画のなかで鉄道の駅がそのまま郵便局であったり、通信のターミナルを兼ねているのをよく見かけますといった教示をいただいた。これがあるから、ネットはありがたいと改めて思った。成程、思えば『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』のオープニングシーンでも、駅で受信している電信の音が耳障りで、ならず者が引きちぎっていたことを思い出した。そうか、電信の音で始まった『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト』に対して、電信の架線で終わった『レッド・サン』だったのかと、ますます因縁の深さを思わずにいられなかった。
by ヤマ

'20. 9.22. BSプレミアム録画



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