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『パラダイス・ナウ』(Paradise Now)['05] | |||||
監督 ハニ・アブ・アサド
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無音のエンドロールに何とも沈鬱な思いを印象づけられる作品だった。アラブのイスラム過激派による無差別テロや自爆テロをイスラム原理主義の下にある宗教的狂信として観る向きは、本作が撮られた十五年前より少なくなってきているから、去年観た『ホテル・ムンバイ』でも、狂信性ではなく彼らの苦境が描かれていたが、本作などは、その先駆けとも言えるような作品なのかもしれない。 イスラエル占領地のヨルダン川西岸地区の街ナブルスに、コロナ禍でもないのに、ほぼ封じ込められた生活を続けてきている青年サイード(カイス・ネシフ)は、自分たちパレスチナ人について「尊厳のない人生…来る日も来る日も侮辱され、無力感を感じながら生きていく」ような抑圧に苛まれていると語る。素朴な感情表現の豊かな幼馴染ハーレド(アリ・スリマン)がいつも傍にいるものの、写真撮影に際しては写真屋の指示に素直に従いつつも笑顔を求められると「笑えない」と応えるしかないような鬱屈に囚われていた。二人は、『戦争と人間』でも見掛けた「抗日即生不抗日即死」を掲げた日中戦争時の抗日活動に通じるような抗イスラエル活動に加わっていたようだけれども、中核活動者ではなく要員リストに登録をしている賛同者といった感じの存在で、狂信者とはむしろ正反対の性格付けがされていた気がする。サイードが、過激な抵抗運動の英雄アブ・アザームを亡き父親として持ちながら穏健派の抵抗運動を指揮していると思しきスーハ(ルブナ・アザバル)から好意を寄せられながらも、思慮深く節操のある態度を崩さない冷静を失わない人物だったことが印象深い。 そのような彼が、スーハの説得により考え方を改めたハーレドの要請を拒んでまで自爆テロを遂行するわけだから、問題の根は、やはり深いと言うほかない。ハーレドと違って彼には、10歳のときに父親をイスラエルへの密告者として処刑された過去があるので、自身の抱えている窮屈さが比べ物にならないという事情があるにしても、やはり悲痛と言うしかない。段取りがくるってしまったなかで、自ら単独決行しようとしたバスに子供が乗っているのを見て一度は止めたものを幼馴染の説得を振り切って実行したと思しき彼の胸中に、改心前にハーレドが口にしていたような「平等に生きられなくとも平等に死ぬことはできる」「地獄で生きるより、頭の中の天国のほうがマシだ。」といった勇壮は、微塵もなかったように思う。 だからこそ、エンドロールを観ながら沈鬱に見舞われたわけだが、公開当時のチラシによれば、アカデミー賞の外国語映画部門にノミネートされたときに、自爆攻撃のイスラエル人犠牲者の遺族が「映画は無実の市民を殺害する自爆テロを正当化しており、危険なプロパガンダだ」として、ノミネートから外すよう嘆願書を提出し、記者会見を行ったことが記されていた。そのような署名運動も行われたようだ。映画そのものを観れば、サイードたちの苦衷は描かれていても、自爆テロを正当化するような作品ではないのは明白で、むしろ若者に自爆テロをさせようとするアブ・カレム(アシュラフ・バルフム)らの指導者側の心なさといったものが、例えば、テロ決行前の遺言ビデオの撮影時の御粗末さや食い物を頬張りながらの立会といった不心得のみならず、重ねて描かれていたように思う。しかし“無実の市民を殺害する自爆テロ”を“抗イスラエル活動”に置き換えれば、確かに「映画は抗イスラエル活動を正当化しており、(イスラエルにとっては)危険なプロパガンダだ」と言える映画になっていたように思う。この嘆願と会見は、その趣旨で行われたもので、「自爆テロ」は口実であり、犠牲者の遺族は、テロに利用されるイスラム教徒と同様に、政治利用されたということなのだろう。 それにしても、自爆テロ決行者の遺言ビデオや密告者の自白ビデオが販売やレンタルに供されているとは驚いた。しかも、密告者の自白ビデオのほうが人気が高いのだという。それらを購入したり借りたりしていくナブルスのパレスチナ人の政治的スタンスは、どのようなものなのだろう。野次馬的好奇心による人々の占める割合は、いかばかりなのか、大いに気になるところだった。現今のコロナ禍においてもそうだが、当事者意識の持ちようというのは本当に人それぞれで、同じ状況下に置かれているといっても雲泥の差があるとしたものだ。サイードがスーハに語気鋭く詰めていた部分も、やはりそこのところなのだろう。なかなかの作品だったと思うと同時に、同じくパレスチナ人監督が十三年後に撮った映画『テルアビブ・オン・ファイア』の笑いをベースにした描き方との対照をかみしめてみたく思った。 | |||||
by ヤマ '20. 5.11. DVD観賞 | |||||
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