『ホテル・ムンバイ』(Hotel Mumbai)
監督 アンソニー・マラス

 何の予備知識もないまま、高知のシネコンでの上映だからインド映画のエンタメ作品のつもりで観に行ったら、ちょうど11年前の11月にムンバイで起こった同時多発テロ事件のなかの銃撃爆破テロの惨状を生々しく描出した作品だったので驚いた。映画の肌触りがまるでインド映画らしくないと思ったら、案の定、オーストラリア映画だったのだが、なかなか観応えのある作品だったように思う。

 ウォシュレットどころか水洗トイレを使ったこともない貧困生活を余儀なくされていたと思しきイスラム原理主義のパキスタン人青年たちの苦境も描き出され、いわゆる悪の権化のようには描いていないところが目を惹いた。持たされたものであろうケータイで、遠く離れた安全な場所から指示されて、報酬も得られていないまま命を投げ出している若者たちの姿が被害者たち以上に遣りきれなく、それだけに彼らが引き起こす惨劇の痛ましさが余計に募ってきたような気がする。何だか無性に腹が立ってきた。そのせいか、誰が一番悪いのかを思うと、機銃といった武器を作り、テロリストたちに売って儲けている死の商人たちだという気がして仕方がなかった。

 折しも、国内初となる総合的な防衛装備品(と言い換えた「武器」)の見本市「DSEI JAPAN」が政府の肩入れによって開催されたとの新聞報道があった。五年前に“武器輸出三原則”を廃したことの必然と言えば、それまでなのだが、世界最大級の見本市であるDSEIの日本開催に、政府関係者は「隔世の感がある」と歓迎するといった記事を読むと、ある種、時代掛かった積年課題のような防衛省の泣き処に、経産省(=内閣府)が「しょせん金目でしょ」みたいなノリで掻き回してきている気がして仕方なかった。

 先のことなど何も考えていないとしか思えない“今だけ”で、経済と言えば大企業の株価のことだと考えているとしか思えない“カネだけ”、ひたすら己が権力の維持と示威行動に恋々としている“自分だけ”の現政権が、史上最長在任期間のなかで、そんな大それたことではなく只の選挙目的・政権維持のためだけにしていることに過ぎないと思っているであろうことによって、これまで日本が築き上げてきた大事なものをどれだけ破壊し、日々の労働に従事している人々が帰属し構成している組織の社会的装置としての機能を損なっているかを思うと、本当にやり切れなくなってくる。官庁にしても、報道メディアにしても、教育界にしても、法曹界にしても、現場の受けているダメージは測り知れない。

 先月観たばかりの新聞記者』の映画日誌に綴ったこういう政治主導のもたらした破壊は、あたかもタリバンの遺跡破壊のように既に取り返しの付かないレベルにまで至っているのではないだろうかとの思いをまた新たにするような記事だった。本作のイスラム原理主義者による同時多発テロをジハード(聖戦)だと正当化する論拠は、冒頭で強調されていたケータイからの指示者が語る“格差の不当性”だったことを思うと、日本でも顕在化するようになったヘイトスピーチやら、先ごろ起こった京都アニメーション放火事件、三年前の相模原障害者施設殺傷事件といった見境の無い暴力事件の根幹に横たわっているものに、相通じるものがあるような気がしてならない。刃物やガソリンが銃器に替われば日本で起こってもおかしくはないわけで、ホテル・ムンバイで起こった出来事を宗教問題だと考えてはならないことを明示していたように思う。
by ヤマ

'19.11.15. TOHOシネマズ2



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