『十七人の忍者』['63]
『十兵衛暗殺剣』['64]
監督 長谷川安人
監督 倉田準二

 七人の侍ならぬ十七人の忍者ながら、最後の突入時は案の定、七人の忍者となった。「映画は、やはりそうでなければいけない」というフレーズが湧いて、三十年前に拝聴した梅本洋一の講演を思い出してほくそ笑んだ。このようなタイトルからして、わりと気楽に眺められるものと思いきや、なかなかの緊迫感に、思いのほか観入らされてしまった作品だ。

 勝ち誇っている才賀孫九郎(近衛十四郎)に対して、その奢りと隙を生ませる術こそ、我が忍法「反間苦肉の策」と挑発した伊賀の甚伍左(大友柳太朗)の術名が示しているように、漫画的な技は何もなく、せいぜいで老人を装った忍法姿づくりでのマスク脱ぎと、柘植半四郎(里見浩太郎)が孫九郎と対決したときの並外れた跳躍、そして、闇凧くらいだったように思う。だが、そのいずれも多少誇張しているきらいはあっても、あり得ぬ技ではない。忍術というのは間者による調略術だとするなら、まさに反間苦肉の策こそは、鉄壁の守りを誇り一分の隙も無いよう見えた駿府城を破る秘策だったわけだ。

 そういう意味でのリアリズムには、ありがちな忍者ものにはない格別のものがある一方で、伊賀の甚伍左の真意心底においては、忍者世界に似つかわしくないファンタジーが描かれていて、些か呆気にとられた。

 それにしても、クレジットのトップは里見浩太朗だったものの、出番の多さでも、新参者として家中で味わう不本意にしても、知略の冴えにしても、陥穽への嵌り具合にしても、人物造形にしても、最も目を惹いたのは、近衛十四郎だったような気がする。だが、それゆえに、出番の割に圧倒的な存在感を示していた壮年期を感じさせる大友柳太朗の格の高さが印象深かった。後には大いに貫禄も発揮していたように思う近衛十四郎も、この時分ではまだ、大友柳太朗に格では及んでいないように感じた。

 先に観た『十七人の忍者』と同じく、近衛十四郎【柳生十兵衛】と大友柳太朗【幕屋大休】が、新陰流の正統性を示すとの印可状を巡って張り合う二人を演じた作品だったが、『十兵衛暗殺剣』では、近衛十四郎が出演者のトップに記されるばかりか、大友柳太朗のほうが敵役に回っていた。だが、序盤の見せ場である馬上の将軍家光の前で十兵衛に果し合いを申し入れた場面からして、やはり大友柳太朗の格のほうが上回っていたように思う。申し入れの作法をわきまえていないと一蹴した十兵衛に「剣の勝負に形ばかりの作法があろうか」と返して、柳生は道場剣法だと揶揄する幕屋の押し出しに、それがよく表れていたような気がする。タイトルとは裏腹に十兵衛ではなく、幕屋大休のほうが暗殺とも言うべき闇討ちに掛けられていたが、幕屋が「貴公、できるな、名を聞いておこう」と言った高弟さえも真剣を持つのは初めてだと零していたのだから、道場剣法が揶揄とばかりは言えない有様だった。結局、最後は十兵衛が幕屋の言った「剣の勝負に形ばかりの作法があろうか」を体現する太刀遣いによって勝負を潜り抜けて幕屋の持っていた印可状を手に入れるわけだから、幕屋が今わの際に発した「十兵衛、新陰流正統は、あくまでもこの幕屋大休だ」のとおりだったような気がしなくもない。

 ただそうしてしまうと十兵衛形無しになってしまうからか、幕屋には琵琶湖の海賊ならぬ湖賊との結託という妙に取って付けたような運びによってダーティなイメージを敢えて付与しているように感じた。だが、湖賊がいくら姑息な戦法で迎え撃ったとしても、それは幕屋の名乗る新陰流正統によるものではなく、剣術とは無縁のものだ。

 それはともかく、幕屋が湖賊の頭領と思しき美鶴(宗方奈美)に告げた「二つの力を一つにするのだ」との口説き文句が妙に可笑しく、覆い被さって手を合わせるだけの濡れ場に先ごろ観たばかりの『媚薬』の重ね合う裸足の場面を想起した。
by ヤマ

'20. 5.11. DVD観賞
'20. 5.12. BS2録画


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