『アマデウス<ディレクターズ・カット>』(Amadeus Director's Cut)
監督 ミロシュ・フォアマン

 十六年ぶりに再見する機会を得た際に同席した方々から本作についての意見を求められ、前回観たときその二十年前に観たときの記録との違いに驚いたのだけれども、映画や音楽は、絵画や彫刻のように物として眼前に存在し得る造形物とは異なり、鑑賞者の心のなかに宿るものだから、僕が受け止めたものは必ずしも誤りとは言えないとも思っているという話をしたら、とても面白がられた。映画にしても音楽にしても、物として存在し得るのはフィルムであり楽譜であって、映画そのもの音楽そのものではない。

 DC版と劇場公開オリジナル版との優劣に関する意見については、両者を観ている者からは総じてオリジナル版のほうが好評で、僕もどちらかと問われればそうなるものの、オリジナル版にはなかった「サリエリ(マーリー・エイブラハム)の家にモーツァルト(トム・ハルス)の楽譜を持ってきて前以て彼の才能を知ってもらおうとしたコンスタンツェ(エリザベス・ベリッジ)に対して、ある要求をしたことと、それを受けてコンスタンツェが取った行動にまつわる場面」については、かなりの重要性を感じている。

 ソクラテスの妻クサンティッペと終着駅 トルストイ最後の旅にも描かれていたトルストイの妻のソフィアに並ぶ世界三大悪妻とまでされる彼女が、単に生活のためということではなくて、ある意味、献身的なまでに夫の身を立てることに尽くそうとしていた女性であることを示すエピソードだったからだ。この場面は、一切の書き直しが加えられていないオリジナル楽譜を観てサリエリが驚愕する非常に重要な場面に続くものであるところがミソなのだが、悪意に満ちた彼女への要求をサリエリが結局は実行しなかったことで、彼の要求もまた行為を求めてのものではなく、モーツァルトの才が余りにも卓抜したものであることへの逆上であり、半ば八つ当たりのようなものだったことを示していた。だから、コンスタンツェが応じる覚悟を固め、夜中に再訪してきて裸身を晒し始めたことのほうに狼狽するわけだ。

 それによって強調されるのは、サリエリはモーツァルトを恨んでなどいなくて、彼の恨みは神に対してだという部分になるように思う。モーツァルトに対しては恨みどころか、彼のレクイエム作曲への協力は、サリエリにとって至福の時だったように描かれていた。この「サリエリが憎んだのは、モーツァルトではなく、神だ」という点は、作品構成的には鍵の部分なのだが、神とかいう要素を抜きにしても圧巻のドラマとして観応えのある作品になっているところが本作の素晴らしさだという気がする。

 そして、人の生において、例えば甲子園出場経験のようなことが功罪ともにあるように、かの共同作業がサリエリにもたらしたものの深みが圧倒的で、何十年も後になってなお「許してくれ、モーツァルト! 君を殺したのは私だ」との悔悟を述べさせるに留まらず、自らの喉を掻き切る発作を起こさせるわけだ。そういう意味で、作品タイトルとは裏腹に、まさにサリエリが主人公の映画として、トム・ハルスではなくマーリー・エイブラハムの出世作になっているところが、格別の好演だと思われるトムには少々気の毒に思える。

 演技的には、あの未熟な幼児性を大人として体現していた彼は実に素晴しかった。一般的にはモーツァルトを変態と見る向きも確かにあるようだが、本作のモーツァルト像は、変態というより確実に「幼児性」だった気がする。くだんのスカトロ趣味についても、性的倒錯というよりもどちらかと言えば、幼児がウンチ、シッコで笑う感覚に近いものとして描き出されていたように思う。即ちそれは、倒錯ではなく未成熟ということであって、ある意味、モーツァルトが賜物として授かった音楽の才が彼自身にとっても負い切れないほどの破格のものだったから、音楽の才を育むことに全エネルギーを費やし、他の部分が成長できなかったことを示しているようにも描かれていた気がする。そういう意味では、神はサリエリに対してだけではなく、モーツァルトに対しても残酷な仕打ちをしていたことになるのかもしれない。

 だが、サリエリは堅物だからそこまでの想いに至ることなく、モーツァルトの幼児性を芯から嫌悪していたけれども、憎みはしていないように見えた。ただ“お下劣”というのは、サリエリが最も忌み嫌うものだった気がするから、そのような下劣で破廉恥な男が完璧な音楽を創り出すうえに、女性にもモテることに対して、神を恨みたくなっていたわけだ。それゆえに、トムの体現していた「モーツァルトの幼児性」を欠いて本作は成立し得ないのだから、少なくともマーリー・エイブラハムと同程度には評価されてしかるべきものだと改めて思った。
by ヤマ

'20. 2. 3. 高知伊勢崎キリスト教会



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