『金子文子と朴烈(パクヨル)』(Anarchist From The Colony)
監督 イ・ジュンイク

 日韓問題に強い関心があるわけでも、社会主義運動に強い関心があるわけでもないが、ふと目にすると留めてしまうくらいには関心のあるほうなのに、還暦を過ぎるこの歳まで金子文子と朴烈の名は知らずに来たから、思わぬものを観たとの思いとともに、なぜこれまでに知る機会がなかったのだろうと訝しく思った。

 大逆事件という名が想起させる陰惨さとはむしろ逆方向にある、国家権力を翻弄した、まさに「不逞社」の名に相応しい二人の姿に対し、権力側の思惑を外しまくった破天荒さには森友学園問題の籠池夫妻を想起し、天晴れと哀れを共に誘うところには『俺たちに明日はない』['67]のボニーとクライドを想起した。要は、少々現実離れした人物造形の魅力に惹き込まれたのだが、エンドロールを眺めていて、ポスターにも使われているカットの写真が実物写真に入れ替わったときに、これだったか!と了解した。

 あの写真は、検事と思しき立松(キム・ジュンハン)が、実際に映画で描かれたようにして撮らせたものだったのだろうか。どうも、そうとは思えないところがある。映画のなかでも立松と写真屋は外に出されていた。かといって、刑に服してから後に朴烈(イ・ジェフン)と文子(チェ・ヒソ)があのような写真を撮る機会はないだろうし、逮捕されるまでの生活のなかでそのような経済的な余裕があったようにも思えない。だから、それが二人のパートナーシップの“時代に先駆けた先進性”を表象するイメージとしての映画的拵えモノではなくて、実在物のトレースだとしたら何とも不可解な写真だと思った。そのことから、思わず触発されるものが広がった。

 実際の朴烈と文子が本作に描かれたとおりの奔放でユーモラスな人物だったとは、必ずしも思えないところがあるのだが、もしかすると作り手たちが、この写真はどのようにして存在し得たのだろうとリサーチとイマジネーションを重ねるなかで浮かび上がってきたキャラクターだとしたら、大いに得心が行くように感じられたのだった。

 それとともに、小林多喜二が虐殺された悪名高き治安維持法の時代と違って大正期の治安警察法下では、映画で描かれていたように、自警団よりも官憲はよほど安心だと思える状況があったことを韓国映画から知らされたことに感慨深いものがあった。警察も司法も現場の職員は、職分に見合った節度を持って臨んでいるのに、それをオカシナ方向に捻じ曲げていくのが現場を知らない“上のほう”であるのは、古今東西かわらぬことなのだろう。

 朴烈と文子の破格に誘われるようにして獄吏が裁判の傍聴に足を運んでいた姿には、実に人間的な納得感があったのだが、関東大震災での朝鮮人虐殺問題隠しのフレームアップ事件を描いた韓国映画にあって、そのような獄吏を造形していることに大いに感心した。映画の序盤で、朴烈が日本政府は嫌いだが、日本の民衆には(同じ政府に支配されている者同士として)親しみを感じるというようなことを零していたのは、朴烈の言葉ではなく、作り手のスタンスの代弁なのだろう。韓国映画なのに、朝鮮人の朴烈よりも圧倒的な存在感を残すのは日本人の金子文子のほうだ。二人にまつわる人物でも朝鮮から訪れる新聞記者や仲間の在日朝鮮人たちよりも、取調室で二人きりになる時間を与えていた立松や、懸命の弁護に努めていた布施弁護士(山野内扶)、「遺書一枚残さずに彼女が自殺するはずがない」と叫んでいた、金子文子の獄中での遺稿を元に彼女の自伝を上梓したとの栗原一男(ハン・ゴンテ)らの日本人だったことが印象深い。

 文子は朴烈の書いた詩に惚れ込み、彼に憧れ、彼女のほうから申し出て同棲を始めていたが、その端緒において母印押捺を求めた約定からしてそうだったように終始、朝鮮人の彼をリードしていたのは日本人の文子のほうだとして描かれていたことも目を惹いたが、それもこれも写真のイメージが喚起したものだと思えば、納得感が湧いた。

 法廷での発言は恐らく法廷記録ではなく文子の遺稿による『何が私をかうさせたか』からのものなのだろう。朴烈が、社会運動家というよりも挙名願望の強いナルシストのように描かれ、自身のヒロイックな死によって同胞が立ち上がることを願うロマンチストだったのは、それゆえではなかろうか。法廷で専ら政府と天皇制の持つ欺瞞を過激に衝いていたのは、文子だった。朴烈の詩に惚れた文子にとって、自分の愛した男は、やはりロマンチストの文学者であったのだろうし、自分こそが筋金入りの無政府主義者なのだとの自負もあったにちがいない。

 そんな彼女が、事もあろうに、天皇からの恩赦によって死刑を免れ終生飼い殺されるというのは、屈辱以外の何物でもなかろうと思えば、彼女が「殺さぬなら死んで見せよう」と自死を遂げたというのは解らないでもない気がする。それに相応しい苛烈な人物造形を本作でも施していたように思う。

 しかし、映画の作り手は、栗原の叫びを裏付ける驚くべき暗殺動機を提示していた。1923年に捕縛され1926年に死んだ文子に通常なら起こり得ないことが起こったのは、写真屋共々室外に出る計らいを立松が施したことの結果だというわけだ。あのとき、ちょっとした物音がそう言えばしていたのは、そういうことだったのかと思いつつ、写真どころではないものを生み出した立松懐清なる男は、いかなる人物だったのだろうと思わずにいられなかった。文子の遺稿には、どのように綴られていたのだろう。
by ヤマ

'19. 6.18. 美術館ホール



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