『ラルジャン』(L'Argent)['83]
監督 ロベール・ブレッソン


 三十年近く前にやさしい女['69]を観て以来、ずっと気になっていた作品をようやく観た。そして、昨今の饒舌で説明過多の映画にうんざりしながらも知らず知らず馴らされている自分の感覚を砥石で磨いてもらったような爽快感があった。

 心理描写をここまで排除し、ろくに筋を物語らなくても、きちんと人間ドラマが造形されてしまうことに恐れ入った。題名の「ラルジャン」は字幕で金と訳されていたが、偽札であれ偽でない金銭であれ、端緒に過ぎない。ごく普通の平凡な妻子持ちの労働者だったイヴォン(クリスチャン・パティ)を、警察関係者に「殺人鬼よりも厄介だ」と零させる人物に変えたのが、ラルジャンなどではなく深い失意と孤独だったことに打たれ、また、彼をそこまで追いやったのが人々の“軽率な悪意”でしかないものであり、その積み重ねによって追い込まれたとも言うべき不条理な“犯歴と言うも酷な出来事”が彼から奪ったものの大きさに戦慄した。

 最後の無差別惨殺事件が示すような明白で無残な悪行を、イヴォン自身を含めた登場人物の誰一人としてそれまで行っていないにもかかわらず、あくまでそれまでに起こった出来事の数々の帰結としてイヴォンの犯行が浮かび上がるようになっていたと思う。メディアを含め人々が安易に言及する“原因”として単純に捉えることの出来る事象など、人間の心理や行動において何一つないというのは、かねてよりの僕の持論なのだが、作り手にもそのような意識が強くあるようで、一番のおおもとは偽札を作り、使った高校生たちだとするのであれば、その端緒は息子が求めた金の無心を断った父親にあることになるという断り書きをきちんと入れていたところに感心した。風が吹けば桶屋が儲かるのは、結果論であって因果律などではないということだ。

 そして、殺人まではいかずとも相対的に最も悪行に手を染めていると見られがちであろうリュシアン(ヴァンサン・リステルッチ)に小切手の送付とともに、イヴォンに対する罪悪感を認めた手紙をカメラ屋に送っていたエピソードを添えてあったことにも大いに感心させられた。リュシアンの偽証は、イヴォンが偽札行使に関する名誉回復を期した訴訟の敗訴を決定づけたことではあっても、直接的にイヴォンから仕事を奪ったものではない。その点では、言い訳がましく「一度ついた嘘は突き通さないと」と零し、勝訴によって偽札事件との関連から逃れられたと安堵していたと思しきカメラ屋の店主(ディディエ・ボーシイ)のほうが有責度は高く、彼の眼中にあった保身は、あまりにも卑近な悪行ながら、観る側において最も罪深く感じられるよう構成されていたような気がする。

 無関係を装おうとする店主と裏腹に、彼の妻と思しき、偽札と見破れず高校生たちに釣銭を渡した女性(ベアトリス・タブーラン)は、学校に通報に行くわけだが、イヴォンの不名誉を晴らすためなどではなく、自分が騙されたことへの腹いせでしかなかったようだ。人とはそうしたものであるということなのだろう。穏便に事を収めたい件の高校生の母親の眼中にもイヴォンの存在は些かもなく、おそらく夫に内密で用立てた金を当の女性に渡して事を収めようとしていた。誰も彼もがてんでにばらばらで自分の思惑でしか動かず、関係する他者の思いへの配慮がないのが人の行動原理であるとでも言っているかのようだ。

 イヴォンにしてもそれは同じことで、偽札と気付かずに使ってしまったことで警察沙汰になり職を失った際に、新たな出直しに向けて健気にも励ましてくれた妻エリーズ(カロリーヌ・ラング)の求めに応じず、「頭を下げるなんてごめんだ」と復職を試みようとしなかったばかりに、とんだ顛末を迎えることになるわけだ。されば無差別惨殺事件の原因はイヴォンが妻の求めに応じなかったことにあるのかと言えば、そうとも言い切れない。よしんば、妻にも言えない怪しげな稼ぎ口の話に乗ったとしても、命じられた通り車に待機していただけなら、収監に至る運びにまでは及ばなかったのかもしれない。されば、バックで戻ってきたパトカーに過剰反応して逃げ出してしまい自動車事故を起こしてしまったイヴォンの自業自得ということになるのか、と言えば、そうでもないはずだ。

 そうしたなかで、やはり最も重大な要素は、幼い娘と妻を残し不在にしたまま娘を死なせてしまった事態がイヴォンに与えた衝撃だったような気がする。されば、イヴォンが重大犯罪を犯すようになる原因に対して最も責を負っているのは、彼の妻エリーズだったということになるのかと言えば、そんなわけがない。むしろ一番の被害者ともいうべき者こそが彼女であり、亡くなった娘に違いあるまい。

 ことほど左様に、誰が悪いのかという犯人捜しや言うところの“原因究明”というものは難しく、おそらくは答えの出ないものだというほかない。だから不問にすべきということではないが、少なくとも最重要事項は、そういうところにあるのではないという気がしてならない。メディアや政治家がよく使う「原因究明が大事」「議論することが大事」といったような言説に対して、それはそうかもしれないが、なんか的が外れているような気がしてならないと常々感じることの核心を鮮やかに取り出している85分だった。

 そして、先ごろ観た瞳の奥の秘密で痛烈に描き出されていた死よりも酷な喪失や無視に苛まれる生を期せずして想起させられるようなイヴォンの姿を観て、確かに、彼自身に責があるというなら、ホテルの主人と妻が惨殺されたのはイヴォンを泊めたからだとか、一家皆殺しにされたのは見知らぬイヴォンの訪問を受けて老婦人(シルヴィー・ヴァン・デン・エルセン)が家に入れたからだといったことと同じ程度の責しか彼にはないような気がした。

 人間が人にゆえなき死を与えれば、無慈悲極まりない殺人鬼であり、神が行えば、それは運命ということになってしまうということなのかもしれない。されば、ゆえなきという点では、神ほどに無慈悲なるものはいないという作品だったとも言えるように思う。なかなか大したものだ。

by ヤマ

'14. 5.10. BSプレミアム



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