『悼む人』
監督 堤幸彦


 珍しく原作小説を先に読んでしまっている映画化作品だ。しかも、とてもいい小説で、あまりにもマーキングした箇所が多すぎて、感想文にいつものように抜書きをすることを止めたものだ。人の生と死というものに対して、改めて清新な気持ちで考え直してみずにはいられない読後感を残してくれた覚えがある。

 その天童荒太による原作小説で3章づつ割り当てられていた3人の人物は、やさぐれたフリーの週刊誌記者である38歳の蒔野抗太郎、末期癌で余命幾ばくもない58歳の主婦である坂築巡子、夫殺しでの4年の刑期を前に出所した28歳の奈義倖世だったのだが、映画化作品ではそれぞれ椎名桔平、大竹しのぶ、石田ゆり子が演じていたので、坂築巡子のほかは、十歳以上の年齢的齟齬が感じられたものの、思いのほかすんなり観ることができた。

 原作小説で抗太郎の章に付された標題は、目撃者、偽善者、捜索者。巡子には、保護者、代弁者、介護者。そして、倖世が随伴者、傍観者、理解者だった。読み始める前に眺めた目次に並ぶ各章のタイトルは、何だかピンと来なかったのだが、読み終えてから改めて眺めてみると、なるほどと得心がいく。非常によく練られ、深い思索と高い志によって綴られた作品だった。映画化作品では、原作を読んでいないと少し了解し難い部分があるのかもしれないとも感じたが、このあたりの加減のほどの適否は、既読者たる自分には判然としない。坂築静人(高良健吾)に限らない登場人物の奇特感が、妻の倖世に自身の殺害を求めた夫の甲水朔也(井浦新)はじめ、原作よりも際立っていたように感じられる点が、難点と言えば、難点なのかもしれないなどと思った。

 原作小説を読み、冥福を祈るのでも葬るのでもない“悼み”を抗太郎は父に、巡子は兄に、倖世は夫に、坂築静人の悼みの仕事との出会いを通じて手向けることが出来るようになっていたというふうに感じたが、巡子における兄の影は、抗太郎における息子の存在とともにすっぽり割愛されていた。だが、そのことによる物足りなさは些かもなかったように思う。そして、他には省略を超えた大きな加除も潤色もないように思えるくらい原作に忠実な映画化作品だった気がする。

 既読ゆえか、その原作小説から得た“人の人たる営みというものについて改めて思いを馳せるほどの触発”を映画化作品から受けることはなかったが、人というものは、記憶の生きものだというかねてよりの僕の人間観とも符合して、実に味わい深い作品だったとの原作の印象が損なわれることも全くなかった。

 ほんの数か月前に読み、しかも感じ入ることの非常に多かった小説なので、映画化作品の観賞は、かなりハンディを負っていると予想していたのだが、かなりの健闘ぶりだ。静人を演じた高良健吾の悼む姿の美しいところが実にいい。明確に視覚化できる映像作品としての強みとなるか仇になるかの分かれ目は、映画化の成否の鍵を握っているわけだが、なかなかの佇まいだったように思う。エンドロールの山陰に沈みゆく夕日を向こうに、悼みのポーズで呟いていることを示している口の動きが味わい深かった。




参照テクスト:天童荒太 著『永遠の仔』読書感想文
by ヤマ

'15. 2.20. TOHOシネマズ1



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