『長いお別れ』
『轢き逃げ―最高の最悪な日―』
監督 中野量太
監督 水谷豊

 両作とも、非常によくできた奥さんの人物造形が印象深かった。『長いお別れ』では、東昇平(山崎努)の老妻曜子(松原智恵子)であり、『轢き逃げ』では、娘を轢き逃げされた時山光央(水谷豊)の妻千鶴子(檀ふみ)だ。


 先に観た『長いお別れ』では、何年か前の何かの折に旧友が亡父の晩年に触れて、父親を介護していた母のような世話を自分が妻からしてもらえる自信がないと、その献身ぶりに驚いたと洩らしていたことを思い出した。ゆっくり進行していく夫の認知症に七年間も日々付き添っていた曜子が、最後のほうで自身の網膜剥離への処置のために入院を余儀なくされる場面が登場し、そのわずか二週間の病床生活への臨み方に只ならぬ迫力があって驚いたのだが、その後に、さらに強烈な場面が登場した。

 いよいよ誤嚥性肺炎を患うようにもなって酸素吸入器を付けるかどうかの選択を医師から求められるのだが、会話もできないままの寝たきりになった昇平を前にした家族協議のなかで、「お父さんは望まないと思う」とアメリカから駆け付けた長女の麻里(竹内結子)が母を労うように発した言葉に次女の芙美(蒼井優)が同意を示したことに対して、曜子が「馬鹿にしないでよ」と返したのだった。

 アメリカで生活している姉とは違って、別居してはいても父親の病の進行に従って駆け付ける必要が増えてきていて、進行している認知症の状況を目の当たりにもしてきていた次女の芙美(蒼井優)が、入院中は自分が代わると申し出て母親を入院させたものの、忽ちその大変さに驚き、アメリカの姉との電話のなかで「お母さん、凄いわ」と話していた場面が予め置かれていたけれども、母親の七年間の歳月からすれば、それも当然の台詞だったのだろう。「そんな覚悟なんか疾うに出来ているわよ」との松原智恵子の台詞の響きに、万感の想いが宿っていて心打たれた。

 だが、これが数年前(2009年だっけ?)に「夫婦って何なのかしら」と母親に漏らしていた麻里が、ベッドで眠る父親の姿をアメリカからPC越しに観ながら「お父さんたちのようになりたかった」と零す物語の文脈で語られると、これが老妻や娘たちのあるべき姿のように描かれている感じもして、妙に居住まいが悪くもなった。原作は小さいおうち』が映画化された中島京子の小説だから女性による作なのだが、原作もそのような老妻の姿を描いていたのだろうか。

 僕よりもまだ若い本作の作り手たちの世代からすれば、ジェンダー的な視点ではなく、同い年の旧友が漏らした言葉にも伺える上の世代への素朴な畏敬があってのことのように思える造りだったけれども、僕には、隣家に住む八十代にある母の日頃の弁のみならず、自身の認知症に対する忌避感も含めて、寝たきりで言葉も交わせず治癒見込みもないままの医療技術による延命処置への疑問が、医療保険財源に与える負担の問題も踏まえて、近年とみに強くなってきているせいもあって、澱のようなものが残った。


 続いて観た『轢き逃げ』は、謎解きものとしては早々に底割れするし、犯行の顛末に腑に落ちないところも残るけれども、手嶌葵の歌うテーマソングのタイトルに相応しい“心ある”作品だったように思う。何と言っても人物造形に品性があるのがいい。これを綺麗事だと訳知り顔で斜に構えてしまう向きも少なからずいるような気がするが、本質はむしろ本作の捉えているところにあるように思う。

 十年ほど前に観たピーター・ジャクソン監督の秀作ラブリーボーン['09]を反芻して巡らせた想いに通じるものを触発された。その意味では、先に観た『長いお別れ』の老妻も大した出来人だったが、本作の被害者の母親千鶴子も実に立派な妻だったように思う。娘の死を受容するまでの過程を見守り寄り添ってくれたことに対して発せられた夫からの「ありがとう」に号泣する場面に心打たれた。人がケア出来るのは命ある存在に対してでしかない。遺族にとって必要なケアが何で、罪を犯した者に必要なケアが何なのかを、作り手はとても真摯に捉えている気がした。

 少なくとも、彼らと直に関わり合うこともない人々が、社会正義の名の下に騒ぎ立て、捜査に携わる警察関係者も含んだ事件にまつわる人々を感情的に糾弾したりすることで得られる救いや利益など、何一つないに違いない。被害者でもない者が“被害者感情”を語り、単純な応報刑論に囚われ、厳罰化を煽るようになってきて久しいが、最後に宗方秀一(中山麻聖)が森田輝(石田法嗣)に寄せて得ていた自省には、とりわけ今の時勢において顧みられなければならない、勝ち組負け組などという貧しい流行言葉を流通させることで失ってきた重要なものがあるように感じた。石田法嗣は、僕が観てきたなかではカナリア['04]以来の快演だったように思う。

 もし、輝が付き合っていたという総務課の女性との交際が壊れていなければ、おそらくは起こっていなかった事件であろうことを思うと、なおさら制度やシステムでは御しがたい人間社会の不確実性とままならなさを思わずにいられない。逆に言えば、そんなことが引き金になって起こってしまったりする不条理に満ちているのが人間社会だということでもある。厳罰化などで予防できるわけがない。

 犯行の顛末に腑に落ちないものを感じながらエンドロールを眺めた際に、原作表示がなかったことから、水谷豊のオリジナル脚本のようだと思ったとき、最初は、犯人からすれば「誰でもよかった」というような犯行ではなく、まさに時山望(さな)を狙った殺人の罪を秀一に被せるトリックとして書かれたものだったのではないか、という気がした。それを改変したことで、妙に辻褄の合わなくなる部分が残ったように思われたのだ。作品的には、それで壊れた部分があるわけだが、片や改変されたことで僕はより強く“制度やシステムでは御しがたい人間社会の不確実性とままならなさ”を感じて、かような感慨を覚えたのだから、この改変によってこそ、今の時代に問うにたる主題が浮かび上がるようになったのではないかと感じている。

by ヤマ

'19. 6. 2. TOHOシネマズ5
'19. 6. 2. TOHOシネマズ3



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