『ラスト、コーション[色/戒]』(Lust,Caution)['07]
監督 アン・リー

 2007年度のマイ・ベストテン第1位に選出した作品の約十年ぶりの再見だ。結晶作用が働いているかと思いきや、再見でも途切れぬスリリングさと緊張感に、改めて感心させられた。帰宅後、当時の映画日誌を読み返してみると、ごく細部を除いて何ら所感に変わるところがないことに驚く。作品の持てる力ということなのだろう。あれだけ複雑で微妙な感情の揺らめきを見事に表現していたタン・ウェイの、その後の出演作を一作も観ることができていないのが残念でならない。

 拙日誌の最後のくだりは、HPに置いてあった掲示板「間借り人の部屋に、ようこそ」での談義を期待して振ってあった部分なのだが、当時、あいにく反応がなくて残念だった。ところが、今回の再見で十年越しに回答が得られた。三年前と異なり今となってはチアチーの望まぬ行為になってしまっているクァンのキスで、改めて自分が恋い焦がれているのはイーだとチアチーは、はっきり認識したと思いますとのことだった。クァンのキスは図らずもイーとのキスやセックスと比べられる対象となってしまったわけで、かわいそうなクァン。ともあって、まさに拙日誌に自業自得とは言え、最も割を食っていたのは、三年前にチアチーから想いを寄せられていたクァンだったと書いたのもそこからだったので、快哉を挙げた。回答をくれた女性はあの「逃げて」の心理はこの時点で無意識に擦り込まれたのかもとも思ったようだ。ここのところが僕としても本作の重要ポイントで、イー夫人(ジョアン・チェン)が望んでも得られなかった5カラットダイヤを上回る6カラットの指輪を得ただけであの「逃げて」が出てくる運びにはなっていないところが気に入っている。“バトル・セックス”+“指輪の本気”ではなくて、そこに“クァンのキス”が作用しているとの意見を、嬉しく受け取った。十年前に映画日誌で振ったときに待っていたものが、今回の再見で図らずも得られたことになる。

 チアチーは、三年ぶりの再会にマイ夫人として「夫の貸していたお金が三年越しで回収できることになって」と上海に出てきた事情を暗殺計画にかこつけて説明していたけれども、こちらは十年越しだ。ありがたかった。回答をくれた女性は恋心というのは本人が知らず知らずのうちに陥るものとも述べていたが、だからこそ“クァンのキス”による気づきのもたらしている部分が大きいわけだ。

 当夜は、R18の三倍をも超えるような大人の男女7人で観賞し、4男1女が残って談話したのだが、長官の秘書がイー長官のもとに届けた6カラット指輪を彼が「これは私のものではない」と否定した言葉の意味が話題になった。チアチーに与えた以上、もはや自分のものではないとするイー長官らしい律義さというかケジメだとする声が多かったが、僕はむしろ部下への手前、受け取れるわけがないとの思いのほうが強かった。しかし、その後で提起されたラストシーンのベッドの皺の持つ意味について発言者の意見を伺いつつ想いを巡らせているうちに、受け取り認めたくなかったのは“指輪の本気”のうち、指輪以上に本気のほうだったのかもしれないと思った。しかし、モノとしての指輪の受け取りは拒めても、モノとしては一切合切運び出された何も残っていない部屋のベッドに残っていた皺のように、彼の心のなかにチアチーの存在は拭い去りがたい痕跡を刻み込んでいることを示していたのだろうと思った。言わば、その皺の痕跡を際立たせるうえでの宝石指輪の棄捨だったような気がする。

 また諜報戦においては、女は恋では転ばない。との声も寄せられたが、その点ではまさにチアチーが職業的に訓練されたスパイではなかったところがミソだと思った。プロのスパイ相手なら、あの見事な逃げっぷりを見せるイー長官が、己が心の奥に潜むウィークポイントにまで迫られることはなかっただろう。何事においてもそうだと思うのだが、時にある一点において並みのプロどころか手練れのプロでも真似のできないような技を見せるのは、得てして思いの強い素人だと思う。その僕の持論から言っても、納得の設定と運びだった。

 そして、十年前に日誌を綴ったときに推薦テクストに拝借したお茶屋さんとの遣り取りで、彼女が「トニー、そんな演技だったっけ???」と確認作業をしたくなりました(笑)としていた部分が、まさに台詞として「焦らしやがって」というようなイー長官の台詞としてあることを確認できたのも収穫だった。それが、トニー・レオンの解しているようにイー長官の本音なのか、試しのなかでの台詞として彼が発したものなのかは一概に言えない気がするが、少なくともトニーの解釈は故なきものではないわけだ。

 初見のときは、「これぞ映画!」とも言うべき作品だったことに圧倒されたが、再見した今回は、所感自体に何ら変わるところがないものの、作品への驚きが差し引かれた分、却って情緒的なところには前回よりも感応できた気がする。チアチーの唄う針と糸の歌を聴いているうちにイー長官が目尻を拭うことになる場面や、処刑に際してのチアチーとクァンの表情に現れていたものの味わいは、十年前よりも優っている気がした。




◎「チネチッタ高知 掲示板」より
----------報告とお礼です。 投稿者:ヤマ 投稿日:2008/05/04(Sun) 10:07
 いつもながら、くすりと笑える副題で“裸のつきあい、本気は怖い”に先ずニンマリ。
 僕が長官の“試し”と観ていたチアチーへの向かい方を「本心をさらけ出せば、恐怖の裏返しに攻撃的になって、あのような悲痛な性愛シーンになる」と御覧の部分に感心し、「この処刑場面での私にとっての救いはクァンでした。」を嬉しく読みました。
 ありがとうございました。


----------Re: 報告とお礼です。 お茶屋 - 2008/05/04(Sun) 23:47
 ラストコーション』へのリンク、ありがとうございました。

 >僕が長官の“試し”と観ていたチアチーへの向かい方を
 私も最初の強姦まがいのやつは「試し」かもしれないと思いました。で、この「試し」の後でもチアチーが関係を続けようとすると、イーにとってチアチーは「本気」か「罠」かよけい難しくなるのではとも思いました。「罠」の確率が高そうと思うよね(笑)。だから、ヤマちゃんの「試し」としてのバトルは説得力があるんだけど、イーのガードの堅さから考えて「罠」の可能性がある女性とは怖くてセックスしないだろなーと思ったんです。そうすると強姦まがいの「試し」は矛盾なわけで、感想を書いていても釈然としなかったのですよ。
 ところが、トニー・レオンの解釈では、3年ぶりで再会したチアチーは以前とどこか変わっていて、「なに、じらしてるんだ、このやろう」(とトニーは言わないけど;;;)と怒りをぶつけたということらしいです。トニーの解釈では3年間音沙汰がなかったことで疑いは晴れていたのですね。それが一番納得は行くのですが、今度は「トニー、そんな演技だったっけ???」と確認作業をしたくなりました(笑)。


----------概ね同感なんですが、 ヤマ - 2008/05/06(Tue) 21:19 No.881
 >イーにとってチアチーは「本気」か「罠」かよけい難しくなるのではとも思いました。
 そうです、そうです。ですから、拙日誌でも「そんな彼の眼差しのなかに映ったチアチーは、施された強烈な探りと試しに忽ち呼応するだけの被虐嗜好を備えていないにもかかわらず、香港への帰還に対する自分の引き留めには直ちに応えるわけで、やはり工作員かとの思いが抜き難かったはずだ。」と綴ったのでした。

 トニーの解釈のうち、例の手荒いセックスが“ぶつけた怒り”の表現だというのは、僕としては少々幼稚な気がして、イー長官のイメージにそぐわないのですが、「3年間音沙汰がなかったことで疑いは晴れていた」という解釈は、拙日誌に綴った「彼が(誘惑に)乗ったのは無論チアチーに惹かれてのことではあろうが、一旦仕掛けておきながらも上海に転任しただけで何の音沙汰もなくなったのは、左遷ならともかく昇進しただけに不可解で、もしかするとあれは色仕掛けの工作接近ではなかったのかもしれないとの想いも手伝ってのことだったような気がする。」とも符合していて、僕の与するところですね。

 お茶屋さんのおっしゃる「イーのガードの堅さから考えて“罠”の可能性がある女性とは怖くてセックスしない」というのは、まさしく香港時代のイーのとった行動だったわけですが、上海では、拙日誌に「やはり工作員かとの思いが抜き難かったはずだ。」と綴った部分を残しながらも、踏み込んでいくわけで、彼にしたって、僅かでも可能性があれば直ちにという形で断念するには抗しがたい魅力がチアチーにあったということなんだと思います。また、そういう甘さというか人間的な部分を残していないようなら、逆に、例の宴の後の座敷でのチアチーの唄に涙してしまうことにはならないわけで、そのあたりでのバランス加減は、僕にとっては、人物造形としてむしろ絶妙という印象でしたよ。


----------Re: 報告とお礼です。 お茶屋 - 2008/05/07(Wed) 18:42 No.882
 >抗しがたい魅力がチアチーにあったということなんだと思います。
 それにつきるかもしれませんね。
 ヤマちゃん、トニー、お茶屋のどの解釈であってもいいでしょうけど、ヤマちゃんのが一番説得力がありますね。
 それだけチアチーの魅力抜きには語れないってことで、改めてタン・ウエェイ素晴らしい!
by ヤマ

'19. 5.31. 高知伊勢崎キリスト教会



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