第188回市民映画会
 『判決、ふたつの希望』(The Insult)
 『私は、マリア・カラス』(Maria By Callas)
監督・脚本 ジアド・ドゥエイリ
監督 トム・ヴォルフ

 先に観た判決、ふたつの希望は、昨年度のマイ・ベストテン第1位に選出した作品の再見。改めて非常に素晴らしい映画だと感銘を新たにした。

 高い技術を持ちながらもレバノンでは不法就労でしか仕事を得られないパレスチナ難民のヤーセルに「今の時代は誰も彼もが怒りっぽくなっているからこそ、理性的に臨まなければ。」と諭していた所長の序盤の弁が改めて思い起こされる。難民や不法就労を生み出しているものが何なのか、作中に出てきたノルウェーのみならずパレスチナ難民のみならず、心ならずも欧州へと難民が流浪していかなければならなくなっているのは何故なのか、根深い“侮辱”の根源が何なのかを共有することからのみ、最後に映し出された“叩き壊された排水管の再修繕”が果たされることを訴えている。

 我が国を含めて各国で排外主義やヘイト・クライムが蔓延し露見してきた時代なればこそ、とても重要な作品だ。それにつけても、原告のトニーも被告のヤーセルも両者ともに、法廷闘争に勝つためだけの有利不利といった戦術的なことは眼中になく、ファクトに対して実に誠実な、頑なだけど品性ある姿が強調されていて、心打たれた。力によってファクトを蔑ろにされてきている民なればこそ、ファクトを偽ったり騙ったりすることは絶対にできないという感覚が、頭で考える是非ではなく身体感覚になっている姿として造形されていたことに、改めて感銘を受けた。


 続けて観た『私は、マリア・カラス』は、初見だったが、収集してきた記録映像や書簡の充実ぶりに圧倒された。

 '70年のロング・インタビューとマリアの残した書簡や遺稿からの肉声が中心になっていたように思うが、実に見事な編集だと感心させられた。マリア・カラスのファンでも、格別、オペラ愛好家でもない僕でさえ、彼女のベルカントのディーバとしての高名は知っているし、十五年前の市民映画会で劇映画の永遠のマリア・カラス['02]を観てもいる。だが、ドキュメンタリーフィルムの持つ“生な素材感”は、やはり圧倒的だった。

 分野も次元も全く異なり比するもおこがましい話だが、四十年来続けているバドミントンで、僕にも衰えたパワーや反射神経を若い時分にはなかった技術の習得のなかで取り戻したい思いに駆られたことがある。マリア・カラスにとっては、失われたものと得ているものが共に破格だから、尚更にそうだったろうことが、歴年の彼女の優れた歌唱をそれぞれの時代の音源で並べて聴かせてもらえたことで、実感できた気がする。三十代時分の『カルメン』からの恋は野の鳥(ハバネラ)ほかの歌唱での繊細で強いという奇跡のような高音域と、それを失った四十代の『トスカ』からの♪歌に生き、恋に生き♪での見事な表現力を合わせて聴いたのは初めてで、僕にでもその得失の違いが判ったように感じられたからだろう。いかなマリアと言えど、いつもコンスタントに出せるような声ではなかったとしても、むしろそれが当然のような気がした。また、若い頃の派手なきつい化粧でアグレッシヴな印象を与えていた時分よりも、米大統領未亡人ジャクリーンと再婚した海運王オナシスとの復縁を果たした後の柔らか味を湛えた四十路後半の彼女のほうが魅力的に感じられた。

 そして、これまで付与されていたイメージ以上に、マリアがいかに真摯にオナシスを恋い慕っていたかが偲ばれる編集に心打たれた。それには、『永遠のマリア・カラス』で彼女を演じたファニー・アルダンの朗読によるマリアの遺稿や書簡の言葉がとりわけ効いていたような気がする。さればこそ、エンドロールとともに流れた、『ジャンニ・スキッキ』からの私のお父さんの1965年の歌声に、グッとくるものが宿ったのだと思う。

 マリア・カラスのファンやオペラ愛好家にとっては、さぞや格別の映画に違いない。奇しくも終映後に会場から拍手が湧き起こっていた。
by ヤマ

'19. 6.21. 高知市文化プラザかるぽーと大ホール



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