『永遠のマリア・カラス』(Callas Forever)
監督 フランコ・ゼフィレッリ


 マリア・カラス生誕80周年記念と銘打たれたこの作品は、高知でも最も長きにわたってオフシアター上映を続けている市民映画会の第142回上映会で観ることができたものだ。東京では大ロングランとなっている作品なのに、地方では映画館で上映されず、こういう形でないと見られないのは残念至極だけれども、ともかく観る機会が得られてよかった。
 二十年くらい前に観たゼフィレッリ作品の『トラヴィアータ 1985・椿姫は、僕がこれまでに観てきた少なからぬ映画のなかでも特に印象深い作品の一つで、オペラ椿姫の物語をドラマとして映画化することに主眼を置いたものではなく、映画の技法を使ってオペラそのものを映像化した作品だ。ライブステージでは味わえない映画ならではの魅力に富んでいて、新鮮な刺激で魅了してくれた覚えがある。そのゼフィレッリが、マリア・カラス全盛期の録音を使って、かつての美声を失った彼女自身(ファニー・アルダン)が演じる映画を撮ろうとするフィクションを映画にし、結局はマリアの意向によりお蔵入りさせる顛末を描いたところに、僕は大いに興味を抱いた。オペラの舞台監督もしていて自身がマリア・カラス本人と深い親交を結んでいたというゼフィレッリの「生舞台としてのライブと幻を造形する映画との表現媒体による違い」を本質のところで知悉している感覚が、映画のなかに見事に宿っていたように思う。映画という表現が他の表現以上に先鋭的で本質的な形で宿している“フェイク”というものに対して、映画人の持っている微妙な感情が味わい深く投影されていた。
 マリアが偽物だと拒むであろう心情を充分に解していればこそ、あのような顛末にするのだろうし、かたや偽物本物ということではないとの思いが強ければこそ、かつて『トラヴィアータ』を撮り、今また劇中作として美声を失ったマリアが昔の歌声に合わせて演じる映画『カルメン』を登場させ、物語のなかで随時そのハイライトシーンを断片的に見せる形に過ぎないながらも、比類なき魅力で一個の映画作品としてきちんと見せてもらいたくなるような出来映えに撮りあげているのだろう。
 その映画化作品が他でもない「カルメン」であるところがまた興味深い。映画のなかでは、ラリー・ケリー(ジェレミー・アイアンズ)が録音版だけでマリアが演じてないオペラだからというような理由で選ばれていたが、実際にマリア・カラスが舞台で歌ったことのない作品だったのだろうか。「カルメン」が選択されたことについては、ラリーならぬゼフィレッリ自身の想いが働いていて、'82年製作の『トラヴィアータ』と同じ様なスタイルで翌年フランチェスコ・ロージが傑作『カルメン』を撮りあげていることを意識していたのではないかという気がしてならない。
 それにしても、マリア・カラスへの愛情と敬意が、ただ単に讃美し、もてはやすのではない親密感あふれる眼差しで綴られていて心に沁みる。劇中の映画監督ではなく、音楽プロモーターのラリーにゼフィレッリが自己投影している様子が臆面もなく伝わってくるけれど、嫌味がなくて微笑ましい。ラリーの作ったマリアの東京公演ビデオを加工したデモテープに触発され映画に取り組み始めたマリアが、失っていた創造と表現の喜びを取り戻し、活き活きと艶やかになっていくさまに、彼女の囚われていた失意の深さと元々持っていた我が儘なまでにエネルギッシュで華やかな自信とが同時に描き込まれていて見事だった。しかし、「取り戻した」というのは錯覚で、失い還ってこないものであることを思い知る場面は更に鮮やかだ。マリア自らオーディションに臨み、歌の力量ともども人選したホセ役の若者を有頂天の極みにある勢いで誘惑して、単にかわされる以上の痛い思いを味わい、現実を知る。噂されるような気まぐれで映画のお蔵入りを求めたわけではなくて、衰えという現実への自覚と過去の栄光への誇りこそが、マリアの最後に取り戻したものであったことを示して終える物語には慈しみが溢れていた。
by ヤマ

'04. 1.31. 文化プラザかるぽーと



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