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『僕と世界の方程式』(X+Y)['14] | |||||
監督 モーガン・マシューズ
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幼子の発揮する“邪気なき残酷さ”が邪気なきゆえに痛烈だったりすることは、誰しもに覚えのあるものだという気がするが、その幼さと一時性ゆえに、多くの場合、苦笑しつつやり過ごせるものだ。だが、障碍児の発揮するそれが幼い一時期に留まらないことをかほど丁寧に描出している映画は、初めて観たように思う。 最後の飲食店での母子の対話の場面からのエンディングに心打たれた。自閉症スペクトラムの息子を抱え、頼りの夫を車の衝突事故で亡くしたジュリー(サリー・ホーキンス)が、幼時から数学と図形に秀でた才を見せていた息子に寄り添おうとしても応えてもらえず、読んでいる本について訊ねても「母さんには解らない、頭が悪いから」と言われ、ルーティーンが少し狂っただけで荒れることに手を焼きながら、その持てる才能を少しでも伸ばしてやろうと数学教師の個人指導を付けて、七年後の高校生時には、遂に国際数学オリンピックのイギリス代表チームの一員に選抜されるに至る。それなのに、ケンブリッジで開かれた大会本番当日、まさかの試合放棄をした息子を追って見つけ出した後、動揺している息子の心中に寄り添おうとして入った飲食店で「父さんは僕を笑わせてくれた」と亡夫との違いを指摘され、息子ネイサン(エイサ・バターフィールド)の語る亡夫を真似て鼻にフライドポテトを突っ込んで笑おうとする場面に痺れた。 息子へのささやかな褒美を横目に「僕へのご褒美は?」と軽口を発した夫に対し、「私の存在が貴男へのご褒美よ」と微笑む睦まじさを交わしていたなかで、夫の事故死によってジュリーが味わった喪失感は、息子に優るとも劣るものではなかったはずなのに、懇願しても葬儀への参列すら拒む幼い息子のように気持ちをぶつける先もないまま、懸命に生きて来た姿が偲ばれるように感じた。 息子の数学オリンピックへの出場は、ある意味、当人以上に誇らしく、それゆえに試合当日もじっとしていられずに屋外待機を続けていたのだろうが、その栄えある本番の言わば大失敗に対して、息子の生にとって何のどういうことが最も大事なことなのかを見失うことなく、即座に対応していたように思う。その受容力の大きさに畏れ入った。シングルマザーとして障碍児を抱えて生きてくることは、人にこれだけの靭さと品格を育むものなのかと深く心打たれた。 それと同時に、それだけの母親の元で育てられても尚なかなか育たないものを、わずか数週間の関わりのなかでもたらすことのできる、思春期における異性との出会いとその存在の偉大さに改めて感慨を覚えた。ライバル国中国の少女チャン・メイ(ジョー・ヤン)が、彼の生にとって、数学オリンピックよりも重要なのは、それゆえのことだ。 息子の真情を探り当てたジュリーが息子を連れて後を追うべく車に乗り込んだ場面では、それまで二度と座ることが出来なくなっていたであろう助手席に息子が乗ったことに驚いたような顔を見せる様子が映し出されていたけれど、誰とも手を触れようとしなかった息子が、発進に際して握ったシフトレバーに自分から手を重ねてきたときの顔は映し出されなかった。きっと、きっと、涙が溢れていたに違いない。 ジュリーを演じたサリー・ホーキンスは、『シェイプ・オブ・ウォーター』['17]でも『しあわせの絵の具』['16]でも素晴らしかったが、本作もまた、実に見事だった。 障碍児が生き辛さを抱えているのは間違いないけれども、障碍者でなくても大なり小なり生き辛さを抱えて生きているのだという人間観が作り手にあらばこその数学教師ハンフリーズ先生(レイフ・スポール)の人物造形だったような気がする。また、数学をも染色体をも想起させるXとYを足し合わせて「X+Y」とすることで、未知数のイメージさせる“謎”とX(X+Y)の展開がXX+XYとなるイメージのもたらす“男女の出会い”を実に端的に美しく式化している原題に、大いに感心した。作中にも出て来ていた“数学的美しさ”という言葉をも想起させる鮮やかな作品タイトルだと思う。 チームを率いる数学者がネイサンに対して「数学の力はまだ不十分だが、きみの解には美的センスがある」と褒める場面があって気に留まった。この数学的美しさという言葉については、二十代の時分に鮮烈に印象づけられた覚えがある。当時、教護院と呼ばれていた“生き辛さを抱えた少年たち”が措置される施設で児童指導員を務めていた時分に知り合った同僚から、「数学は式と解の美しさを求める自由で雅な趣味だ」と聞かされ、科目的には得意としながらも「数学は公式と解法に縛られた窮屈で味気ない教科だ」と思っていた僕は大いに驚き、感心させられた。 宿直勤務のとき、僕が夜伽に持参した「パズラー」という雑誌に掲載されている各種パズルを寮長に就いていた彼と競い合って解くのがいつもの楽しみで、彼は文章や絵で示されたパズル問題を数式で解いていき、僕は、そんな離れ技など出来ないものだから、感覚に基づく試行錯誤で解いていくのだが、その解のスピードがほぼ同じで、互いにつくづく感心し合っていた記憶がある。僕は彼がどんなパズルも明快な数式にしてしまうばかりか、解けてもこの式と解は美しくないと不満気にしたりすることに驚き、彼は、数式的ロジックに拠らずに直感と試行錯誤の繰り返しで毎回ほぼ彼と同じく解けてしまう僕の思考回路に驚き、そのほうが遥かに離れ技だと言っていた。そして、僕に解けない問題の多くは彼にも解けなかったりすることを大いに悔しがり、これは学問の敗北だと嘆いていたことを懐かしく思い出した。 四十年近い時を経た今もなお、彼の趣味はクラシック音楽と物理数学なのだが、本作には数学的美しさを音楽に通じるものとして描いた場面が登場し、チームメイトの少女がネイサンにピアノの手ほどきをするなかで表現されていたことが目を惹いた。そして、五年ばかり前の作品となる本作を僕が観たのが、彼の投稿した統計に関する論文が総務省統計局のホームページに掲載された年であるという奇遇にも感慨を覚えた。 | |||||
by ヤマ '19. 4.14. オーテピア高知図書館4Fホール | |||||
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