『勝手にふるえてろ』
監督 大九明子

 いささかカリカチュアライズされた若い女性の手に負えないめんどくささの活写に微苦笑の絶えない観賞となったが、奇しくもこれは午前中に観た向井山朋子「HOME」そのものではないかという気がした。公演時間のほとんどを湯浅永麻が下着姿で踊るパフォーミング・アーツなのだが、何かに強く囚われ、ひどく傷み窮屈になっている姿を観ているうちに“思春期の素の女性の心象”の象徴のようなものを感じたからだ。さすれば、「HOME」で印象的に使われていた沢田研二の勝手にしやがれは、『勝手にふるえてろ』からきたものたったのかもしれないと思った。ちょうど昨冬、東京では大ヒットしていたそうだから、それも大いにありそうな気がする。

 それにしても、異常でも偉人でもない24歳、男女交際未経験のOL江藤ヨシカを演じた松岡茉優が、実に巧かった。自分に自信がないくせに自意識だけは過剰なまでに働き、表には出せない“上から目線”と“未熟な訳知り顔”を自身の内で繰り返してばかりいるという、どうにも手に負えない“若い女性の面倒くささ”を見事に体現しながらも、観ていて辟易としてこないのは流石だと思った。多部未華子が梅宮志乃を演じていたピース・オブ・ケイク['15]に近いテイストがあったように思うが、在り体部分の未熟さでは、ヨシカは志乃以上だったように思う。

 付いて回るのはずっと微苦笑で、しみじみ湧いてくるのは、もうあの頃の面倒くささを繰り返すのは二度と御免蒙りたいとの思いだった。開始早々に、これもいささか過剰な形で印象づけられていた霧島(渡辺大知)のデリカシーの無さなればこそ、ヨシカの面倒くささに付き合えたような気がしてならなかった。やはり男はタフでなければいけないわけだ。今どきの真面目な若い男たちにはデリカシーが備わり過ぎている気がするから、霧島のようなデリカシーの欠如を武器とすることのできるタフさというのは、きっと今どき絶滅危惧種に匹敵する貴重さなのだろう。されば、絶滅した古代生物好きのヨシカの愛好するところとなっていくのも道理ということだ。

 濡れていく赤い付箋紙とピンポンの音を重ねたカットには失笑したが、トイレットペーパーで涙を拭った紙の跡が点々とこびりついている顔と、自分から引導を渡したはずの霧島に携帯コールを掛けると思い掛けなくも既に着信拒否にされていて思わず「ファ~ック!」と叫ぶ顔にも、大いに笑わせてもらった。松岡茉優には『ちはやふる』でも大いに感心させられたが、本作は主役であるだけに、まさに独壇場だったように思う。

 また、行き交う人たちと知り合いであるかのように言葉を交わし親しんでいた姿が全て妄想だったことが明らかになったとき、その妄想場面を原作小説では、どのように描いていたのか興味が湧いた。歌や踊りも効果的に使い、実に映画的な処理がされていたように思う。原作小説よりも映画化作品のほうが、軽やかで味がいいのではないかという気がした。



参照テクスト向井山朋子「HOME」ライブ備忘録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20180120
推薦テクスト:「Silence + Light」より
https://silencelight.com/?p=849
 
by ヤマ

'18. 5.12. 民権ホール



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