『ピース・オブ・ケイク』
監督 田口トモロヲ


 決して不真面目ではなく、むしろ少し頭が固いくらいの傾向が思考的には窺えるのに、酒や恋愛気分のもたらす“酔いの気持ち良さ”にいとも簡単に流されてしまう傾向を自身に認めていた友人がいて、僕には妙に腑に落ちない気がして仕方がなかったのだが、本作の梅宮志乃(多部未華子)を観ていてようやく得心がいったような気がした。見事な造形だし、多部未華子が実に魅力的に、だらしなくも健気に生きる女性の若さを体現していたように思う。現実感というか実在感みたいな納得感があって、大いに感心した。細部においては確かに今どき感も強く窺えたけれども、本質的なところでは今どきに限らない実に普遍的なものがあったような気がする。

 恋愛事情における女性のそのような等身大という点でのリアリティと細部の捉え方の巧みさに舌を巻き、これは絶対に女性でないと描けないものだと思ったのだが、エンドロールを観ていたら、原作:ジョージ朝倉、脚本:向井康介、監督:田口トモロヲとクレジットされていて仰天した。世の中にはとんでもなく女性通の男たちがいるものだと恐れ入ったのだが、どういう人物なのだろうと帰宅して調べてみたら、ジョージ朝倉というのは女性なのだそうだ。それなら分かると落ち着いた。

 風が吹くでも音楽が流れるでもいいのだが、「どうして自分?」「誰」といった部分に囚われるから自ずと唯一性や他者の存在が気になって仕方がなくなり、それが関係性の最重要基軸になってしまいがちな“若さ”の煌めきと未熟感を余すところなく捉えていたように思う。“恋人いない歴”などという言葉によって強迫されるこの時期に一人が寂しく不安で、ついつい恋愛に依存しないではいられない女性は、志乃に限らず決して少なくはないのだろう。

 そして、寂しさとか不安といった動機のほうが、好きかどうかとか相手が誰かということよりも自分のなかでは強いからこそ、せめて相手の側には私ゆえの選択であってもらわないと“恋愛”とも言えなくなりそうなので、そこのところに拘るのだろうという気がしている。恋愛体質だとか恋愛依存傾向が強い人ほど拘るわけで、志乃が京志郎に「どうして私なの?」と問い質していたのも、それゆえのことだという気がしてならなかった。

 相手が「誰」ということよりも「どういう関わり」、始まりの如何よりも重ねた時間のほうをきちんと観ることができるようになると“若さ”から脱するのかもしれない。それで言えば、くだんの友人は年を重ねても一向に若々しさの失せない女性だったし、本作は、一年半の“恋人いない歴”に耐えたラストに至ってもまだまだ若い志乃や京志郎(綾野剛)が眩しく可愛らしい作品だった。そして、オカマの天ちゃんを演じた松坂桃李にちょっと感心した。




推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/28df7861155bf35c0f542e08917e7146
by ヤマ

'15. 9.13. TOHOシネマズ3



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