『長江 愛の詩』(長江図 Crosscurrent)
監督 ヤン・チャオ

 最初にその名が出てきた上海以外、画面に映る詩とともに示された長江流域の町は、ジャ・ジャンクー監督の長江哀歌['06]にも出てきた三峡ダム以外は、どれも知らない地名だったが、その詩文と直接的に連動しなくても、中国の人が観れば、だいたいどれもよく知られている地名なのだろうか。

 おそらく作り手は、ひたすら長江を遡る映画を撮りたかったのだろう。そして、それをどう見せるかということにおいて、ドキュメンタリーではない物語性をかなり挑発的な形で設えていたような気がする。その点では『長江哀歌』を強く意識していたようにも見えた。

 物語的には何とも掴みどころの無い作品だったように思うが、僕が想像したのは、危ない仕事に手を出して、瀕死の重傷を負ったガオ・チュン船長(チン・ハオ)の今わの際の脳裏に去来した二人の人物の長江に沿った描出ということだった。

 アン・ルー(シン・ジーレイ)については、韓国映画ペパーミント・キャンディー['00]のように、長江を遡上するに従って時系列的には過去にさかのぼっていたように思う。ガオがアン・ルーから「修行を止めて出てきたのに…意気地なし」と言われていた某所の次に、彼女が勤行に精出している場所が出て来たり、映画が進行するにつれ、ガオとアン・ルーの関係性が遠ざかっていく感じがあった。他方、父親にまつわることに関しては、長江遡上に突き進む船の進行と同じように前進していっており、その交差こそが、河の流れに対する遡行というものを視覚的にイメージさせているように感じていたのだが、気になって英題の語義を調べてみたら、案の定「逆流」とあったので、ビンゴ!という気分になった。

 それはそれで、興味深い試みではあると思ったのだが、三峡ダムあたりで破綻が来ていて、その辺からアン・ルーが、ガオ・チュンにとっての実在女性から、なんだか“長江の精”のような意味深な存在に変貌していったような気がする。僕にとっては、そのおかげで、何とも掴みどころの無い物語になってしまった。長江源流に至ってのあの石碑は、いったい何だったのだろう。老人から「触るな!」と咎められていた石碑にアン・ルーの名が刻み込まれているのを観て、「なんじゃこりゃ」と頭を抱えてしまった。なんだか2001年:宇宙の旅['68]に立ち現われたモノリスもどきのようなものを感じた。

 また、オープニングとエンディングで「出品」としていくつかの会社名がクレジットされたなかに「山本嘉博文化発展有限公司」というのがあって驚いた。「本」の字だけが筆記体の略字に崩されていたのだが、確かにそう見えて調べてみたら「山東嘉博文化発展有限公司」というのが正しいようだ。それにしても、なぜ嘉博なのだろう。

 
by ヤマ

'18.11.21. 美術館ホール



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