『きみの鳥はうたえる』
監督 三宅唱

 チラシに「きらめきに満ちた、かけがえのないときを描く、青春映画」とあるのを観て、佐藤泰志の原作映画がそのような作品になるはずが…と思っていたら、案の定だった。『海炭市叙景』['10]から始まってそこのみにて光り輝く['13]、『オーバー・フェンス』['16]と観てきて、監督がそれぞれ違いながらも、ある種、共通した空気感があって、それが原作者によるものならば、本作もどう考えたって「きらめきに満ちた…青春映画」になるはずがないと思ったのだ。

 往年の傑作と名高い『突然炎のごとく』['62]を意識しているように映る作風も、次第に佐藤泰志映画的な陰気さが漂い始めるのだが、それにしても、トリュフォーを想起させることさえ含め、とても現代の作品とは思えない古色が妙に印象深くて、また更に佐藤泰志映画的な感じが強くなったような気がする。

 なにせ既に還暦にある僕が観て、自分が若かりし頃と全く重なる、飲酒、喫煙、ビリヤード、卓球に加え、尾崎亜美の♪オリビアを聴きながら♪なのだ。スマホこそ出てくるものの、風俗的には昭和の時代のものだ。だが、昭和の時代の映画なら、佐知子を演じた石橋静河の母、原田美枝子がそうだったように、画面に佐知子のフルヌードが出てこないなどという脱ぎ惜しみは決してなかったはずだと思った。『青春の殺人者』['76]に限らず、当時のATG映画なんて、ほんとに無駄に女優を脱がせまくっていたような気がする。たぶん過日の国立近代美術館での展覧会“アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960-1990年代”で観てきた、ゼロ次元の加藤好弘による『いなばの白うさぎ』['70]のような '60~70年代前衛アート・パフォーマンスの煽りなのだろうが、翌日にテアトル新宿で『止められるか、俺たちを』(監督 白石和彌)を観たときに感じた“何だかなぞったような拵え物感”に通じるものを感じた。

 なにも裸体パフォーマンスのことだけのせいではないのだが、本作には、そういった類の妙なちぐはぐ感がつきまとい、据わりが悪くて、何だか落ち着かなかった。配役としての柄本佑と石橋静河には、昭和的古色がよく似合うとは思うし、青い光のなかで佐知子が独り陶然と踊る姿に漂っていた気怠い官能感には魅せられたのだけれども。

 それはともかく、恐らくは柄本佑が主演なればこそと思われる“都会でも上映中の高知での公開”というのはありがたいことで、たぶん井浦新なればこそで同じように都会で上映中の公開になったと思われる『止められるか、俺たちを』も程なく観られることになっている一方で、ますます高知での外国映画の公開状況が寂しいものになってきていることが残念だ。ザ・トライブの高知公開という瞠目すべきラインナップでスタートしたウィークエンドキネマMなのだが、わずか一年で新作の外国劇映画がろくに掛からなくなっているような気がする。いちばんは自分たち観客のせいだと判ってはいるのだが、何とも残念だ。
by ヤマ

'18.11.16. ウィークエンドキネマM



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