| ||||||||||||||||||||
美術館秋の定期上映会“カイエ・デュ・シネマが選ぶフランス映画の現在”
| ||||||||||||||||||||
コミュニティシネマセンターによる巡回上映作品10本のなかから、高知県立美術館がセレクトした6作品を3つのプログラムに編んだ企画上映だ。 Aプロの2作は僕も過去にそれぞれ2作品を観ている実績のある監督の最新作で、先に観た『レット・ザ・サンシャイン・イン』は、それなりに面白かったが、続いて観た『ジャネット、ジャンヌ・ダルクの幼年期』は、あまりピンとこなかった。 ブリュノ・デュモンについては『ユマニテ』['99]と『フランドル』['06]を観ていたので、『ジャネット、ジャンヌ・ダルクの幼年期』を楽しみにしていたのだが、十一年ぶりの凋落に半ば唖然としたのだ。もしかすると確信的にやっているのではないかという気もするが、1425年とクレジットされたジャネットの時代にラップのような楽曲を載せたミュージカル風の映画を観ながら、なんだか半世紀前の'60~'70年代に斬新と謳われた手法で作られた感じがしてきて、果たしてどう受け止めたものやらとかなり悩ましかった。 8歳のジャネットとオーヴィエットとの対話には“戦争の世紀とも言われた20世紀”を経てなお留まることを知らないばかりか、戦争を紛争と呼び変えて矮小化しつつ頻発させている今世紀に繋がる問題提起があったようには思うものの、むしろ宗教こそが問題をこじらせている感があるなかで、少女の信仰的清冽をどう受け止めたものやらと思ったりした。 先に観たクレール・ドゥニの作品は、これまでに『ネネットとボニ』['96]、『ガーゴイル』['01]と観ているが、どれも肌に合わず、そのせいもあってか本作が面白く感じられたようなところがある。中年に差し掛かったシングルマザーとの設定のイザベルを、五十路にあるジュリエット・ビノシュが肌も露に熱演していたが、なんだか非常に似合っているように感じられた。 別れた夫フランソワの過去の女性関係を今だに気にしたり、離婚後も行き来があるばかりかベッドを共にしたりもしていた芸術家の彼女が、離婚してまで求め彷徨っていた「愛」とは何だったのだろう。こじれた年増女性の些か浅薄な恋愛遍歴を観ながら、銀行家にしても俳優にしても画廊経営者にしてもろくな男ではない様子にかなり呆れた。 下心があからさまに透けて見える好意を示されつつも恋愛関係にはまだ至っていない画廊経営者から、階層に見合った男と付き合うべきだと咎められていたイザベルが付き合っていた工業高校卒のダンスの上手な恋人の言っていた「そっちの世界の住人と縁を切るべきだ」との言葉がもっともだと思えるような連中ばかりが次々現れていたが、クレール・ドゥニが身辺で眼にして来た男たちに対する実感が投影されていたのかもしれない。 自身の恋愛関係においては「なぜこんなことになったんだ…」とぼやいていた占い師ダヴィッド(ジェラール・ドパルデュー)の恋愛占いの見立てがどれだけ当てになるのか、実に怪しい限りなのだが、彼の言葉にようやく微笑みを浮かべていたイザベラの未熟感が、ジュリエット・ビノシュの持ち味にぴったり嵌っているように感じられた。 20世紀は“戦争の世紀”と呼ばれるのと同じような意味合いで“恋愛の世紀”でもあったような気がしている。とりわけその世紀末においては、恋愛に軸を置いた“(本当の)自分探し”なるものが女性の人生哲学として、日本も含めた欧米型個人主義の浸透した地域において世界を席巻していたような気がする。本作のイザベルなどは、まさしくその残滓を今世紀においても一身に背負っているような女性であるように感じた。彼女が求め彷徨っていた「愛」は、彼女の行状の延長線上においては、占い師の仄めかす“可能性としての出会いのなかに微かに潜んでいる幻”でしかないというのが作り手の言っていたことのような気がする。 Bプロは二日目に観たのだが、僕には既見作品のないジュスティーヌ・トリエ監督特集という形になっていた。先に観た長編第1作との『ソルフェリーノの戦い』は、社会党が返り咲いた2012年の大統領選の決戦投票で大騒ぎになっている日に起こった、テレビレポーターのレティシア(レティシア・ドッシュ)と元夫ヴァンサン(ヴァンサン・マケーニュ)の間の騒動を描いた作品なのだが、役者自身の名で役名を演じさせている意図が紛れなく伝わってくるような劇中人物のライヴ感に圧倒された。そのうえで、何やら訳の分からない力が働いて大騒動になっている選挙戦とも符合するように、幼い二人娘の親権及び面会権を挟んで必要以上の大騒ぎになるこじれ方をしている男女の姿を描き、その不可思議と已む無さの双方を漂わせている風情を当時の政治状況に重ね合わせていたのだろう。単にドキュメンタリー映画出身ということでは済まない作り手の力量を感じた。 ところが、続けて観た第2作は、ライブ感を前面に出した第1作と打って変わって非常に造形色の強い作品だったように思う。どこか『ガープの世界』['82]を思わせる奇妙な真実味が可笑しかった。弁護士ヴィクトリアを演じたヴィルジニー・エフィラと住み込みベビーシッターのサミュエルを演じたヴァンサン・ラコストがなかなか魅力的だったように思う。占い師が繰り返し予言していた“麻薬”とは元売人のサムのことだったのかと些か拍子抜けしつつ得心した。 また、『レット・ザ・サンシャイン・イン』のイザベルと同じく子持ちシングルマザーとなっているヴィクトリアが、一見したところ似たような男性遍歴を重ねているように見えながらも、イザベルのような恋愛に軸を置いた“(本当の)自分探し”なるものでは決してないように映ってきたことが印象深かった。結果として、イザベルが求めても求めても得られないであろうものをヴィクトリアが期せずして得ていた皮肉が興味深かった。 Cプロの2作品は、ともに初めて観た監督の映画だが、風変わりな感じはあっても、これをもってカイエ流「作家主義」の列に並べるのかと訝らずにいられなかった。『パーク』のほうはまだしもなのだが、『ジャングルの掟』の笑いの野暮ったさは、これまた半世紀前の谷岡ヤスジのギャグ漫画のようで、どうしてこれがチラシに謳われた「今フランスで最も重要視されている監督」なのだろうと合点がいかなかった。 ただ『クロコダイル・ダンディ』['86]さながらにジャングルで始終煙草を吸っていたターザンと呼ばれる研修女性スタッフを演じていたヴィマラ・ポンスの熱演には感心しつつ惹かれた。それにしても、彼女といい、『ソルフェリーノの戦い』のレティシアといい、『ヴィクトリア』のヴィクトリアといい、やたらと煙草を吸っていたが、フランス女性の喫煙率は今なおそんなに高いのだろうか。 参照テクスト:美術館 秋の定期上映会 公式サイト http://moak.jp/event/performing_arts/post_40.html | ||||||||||||||||||||
by ヤマ '18.10.27~28. 美術館ホール | ||||||||||||||||||||
ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―
|