『ハンナ・アーレント』(Hannah Arendt)['12]
監督 マルガレーテ・フォン・トロッタ

 高知でもオフシアター上映が複数回されたのに、いずれも日が折り合わず観逃しながらも、いつか観る機会に恵まれそうで、高知上映のチラシのみならず、その二年前になる岩波ホールやユーロスペースで上映されたときのチラシも置いてあったら、映画好きの牧師さんから誘われ、観ることができた。なぜかドキュメンタリー映画だと思っていたので、劇映画が始まって驚いたのだが、いくら観ていない映画のことはとんと知らない僕にしても余りのことだと苦笑した。

 声を掛けてくれた平林牧師が『イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告だとその名を教えてくれたルポの発表によって激しいバッシングを受け、長年の友人たちをも失っていたハンナ(バルバラ・スコヴァ)の姿を観ながら、森達也監督が『A』'98]を撮ったときや神戸連続児童殺傷事件の元少年Aが絶歌を上梓したときの世間の反応のことを思わないではいられなかった。

 一緒に観た常連の順さんは「哲学者らしくとことん理性の人だったんだろうね」と言い、啓さんは「いのち狙われやせんか、ハラハラしよった」と言っていた。大勢に異を唱えることは、いつの時代においてもタフなことなのだろうが、ハンナがアイヒマン・レポートを著した '60年代と今とでは、どちらがより息苦しいのだろう。

 僕の目を惹いたのは、ハンナの言動を反ユダヤ主義だと責めた旧来の友人に対して「私はひとつの民族を丸ごと愛したことはない。私が愛するのは私の友人だ」と言った場面だ。これが彼女の実際の発言だったかどうかまでは判らないが、ドイツの収容所ではなくともフランスの抑留キャンプには三十路半ばで収容されてもいたという当時、五十路のユダヤ人としては、破格のアイデンティティだと唸らされた。婚姻関係の箍などに縛られたりしないのも当然だろうと納得しつつ、悪を為すような“凡人”とはまるで異なる“個性人”だったことに感心した。その強烈な自我の強さには反発を招くことも多々あろうことを充分に窺わせる人物造形を果たしていたことにも感心した。

 哲学者としては、「善は深くて根源的だけれども、悪は凡庸だ」というような言葉が印象深い。そして、牧師さんが配布してくれた『かぞくのくに』と『ハンナ・アーレント』と題する観賞文の最終段に悪あがきであろうがなんであろうが、それがどんなにみっともなく見えようとも、わたしたちには考えて行動することが求められているのだと思うとの言葉とともに引用されていた聖書のルカ福音書16章の「不正な管理人」の不正とはなんだろうと思った。僕は精神であれ頭脳であれ、悪より弱のほうがタチが悪いと若い時分から思ってきたようなところがある。悪と違って対処しにくいというか、立ち位置の取り方がむずかしい。悪を否定するのは簡単だけれども、弱を否定することには躊躇いが生じるのが人情というものだ。だからこそ、アイヒマンを悪ではなく弱としたハンナは、バッシングに晒されたのだろう。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1919750465&owner_id=1095496
 
by ヤマ

'18. 7.31. 高知伊勢崎キリスト教会



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