『動くな、死ね、甦れ!』(Zamri-Umri-Voskresni)['89]
監督 ヴィタリー・カネフスキー

 もう四半世紀前になる、'93年に高松市美術館でのレンフィルム祭で観、'95年には自分たちで高知上映を果たした作品のHDリマスター版による二十三年ぶりの再見だ。当時、僕が編集を担当していた機関紙ぱん・ふぉーかす にオープニングの映像からして素晴らしいが、単に緊密な映像によって綴られることの魅力ではなく、語られる物語そのものが異彩を放っている。似たような設定のドラマや筋書きには覚えがあるのに、嘗て観たどのような作品にもここに描出されたような少年像や少女との関係、展開の仕方は、なかったように思う。少し長いかなという気がしないでもないが、新しくてなおかつ深い第一級の作品だと感じた。レンフィルム祭・リポート)と記した点は、いま再見しても全く古びていないことに感銘を受けた。

 シベリア抑留日本兵の歌うよさこい節や炭坑節、五木の子守唄といった、ソ連の人々からすれば耳に馴染まない唄の響きが示す異郷を思わせるくらいに遠く離れた極東の炭鉱町スーチャンでの人々の貧しく苛烈な暮らしぶりの描出が何とも強烈だ。流刑者や日ソ戦抑留兵を収容している厳しい土地に罪科なく暮らす人々が、ある意味、棄民的な形で暮らしている様子が仄めかされているように思う。年端も行かない十五歳の少女が粗末な食事で発育も悪い貧弱な身体を晒しつつ妊娠を求めるようなことまでして脱出を願う流刑地スーチャンの抱えている困難というものは、あたかもワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)がイースト菌を投げ込んで噴出させなければ、地表には出て来なかった糞尿のように、ソビエト政府にとっては肥溜めに押し込めておく他ない汚物のようなものだ。そういう意味では、脚本・監督を担ったカネフスキーは、映画というイースト菌によってソビエト政府の汚物を溢れさせたワレルカに他ならない。

 吊るされたまま燃やされていた人物(処刑か自殺か定かではないが)の姿がスーチャンでの日々の煉獄を思わせ、配給の小麦粉に泥を混ぜて食する極東送りになった元学者の発狂と呼応するかのような、ラスト場面での箒に跨り全裸で走り回る狂女の姿に圧倒される。おバカなワレルカは、ガリーヤ(ディナーラ・ドルカーロワ)を失ったことの本当の意味にはまだ気づいていないようなのだが、その後ひた押し寄せてきたはずの喪失感のなかで、深く思い至ることになるのだろう。ガリーヤの象徴していたものは、“地味に暮らす生活者の良心”だったのかもしれないと、ソ連崩壊後のロシアで極端なまでの格差社会の伸展が起こっているらしい今、本作のガリーヤの死に対して、改めてそのようなイメージの喚起を促されたように思う。

 
by ヤマ

'18. 7.28. 民権ホール



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