『午後8時の訪問者』(La Fille Inconnue)
監督 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ

 僕が観ているダルデンヌ兄弟の作品は、'00年の『イゴールの約束['96]』、'05年の『息子のまなざし['02]』、'09年のロルナの祈り['08]、'12年の『少年と自転車['11]』そして昨年度のサンドラの週末['14]なのだが、いずれもオフシアター上映だった。高知の今のシネコンでは絶対にラインナップに浮上してこない映画が、こうして二週間に渡る興行番組として掛かるのは実にありがたいことだ。奇しくも旧知の映画愛好者と幾人も遭遇し、新成人の集いとは全く異なるものの、集うべき日に集うべき場に集まったような何だか改まった気分になった。

 日本語では“自責”の責と一文字重なっている“責任”についての映画だと思った。診療終了時刻を1時間余り過ぎて午後8時5分に押されたベルに応じる義務も責任も問われはしなくても、なかに居たにもかかわらず黙殺した若い移民女性が翌日に身元不明の遺体で発見されたことに対して責任を感じ、名前だけでも突き止めようとする女医ジェニー・ダヴァン(アデル・エネル)の姿は、酷薄と疎外が蔓延している今の時代、希少なものになっているに違いないのだが、地域社会で思わぬ波紋が広がっていく様子自体には余り現実感がないにもかかわらず、生々しい実感が宿っていることに瞠目させられた。

 移民の少女(もし警察の言った1995年生れなら、二十歳を過ぎているのだろうし、ネットカフェの受付女性が言ったとおり彼女の妹なら、少なくとも二十歳過ぎくらいのほうが相応な気がするのに、なぜ“少女”とクレジットされていたのだろう?)の死に対して、ジェニー以外にも何らかの責任を感じていた人々がいて、にもかかわらず触らぬ神に祟りなしとばかりにやり過ごし掛けていたことに変化を生じさせたものが何だったのかを思うと、ちょっと感慨深いものがあった。

 名もなき一人の女性の死よりも麻薬密売捜査のほうが重要だと考えている警察がジェニーから頼まれていた遺体埋葬日の連絡をして来ないばかりか、身元捜索に嗅ぎ回るのは止めてくれと言い出すのは、さもあらんことなのだが、ジェニーの「あの時、ドアを開けていれば…」に倣うなら、「自分が声を掛けなければ…」のブライアン(オリヴィエ・グルメ)にしても、「あの時、追ったりしなければ…」のブライアンの父(ジェレミー・レニエ)にしても、「男が妹に娼婦をさせるのを止めていれば…」の姉にしても、警察とは違って、戸を開けなかったジェニーが強い自責を感じている姿に居た堪れないものを感じていたに違いない。ある意味、責任の所在的なところでは、かなり遠いところにあるジェニーが、医師としてのステイタスアップの機会を棒に振ってまで動いたからこそ、事態が動き進展したようなところがあって、そこに作り手の社会責任観が窺えて興味深かった。

 研修医ジュリアン(オリヴィエ・ポノー)の指導医として、患者の痛みに反応しすぎることで職責を全うできなくなる点を咎めたジェニーは、ある意味、麻薬密売捜査の重要性のために身元不明の移民女性の死をやり過ごそうとする警察と相通じるものがあったように思う。だからこそ作り手は、ジェニーがジュリアンに会って謝罪し、医師の道に復帰するよう説く場面を設けていたような気がする。職責、自責、責任のいずれにも重なっている“責”は、今の日本社会では、当事者以外の者が他者に対して専ら“責め立てる”意味合いでしか映らなくなってきている気がするだけに、よけいに触発されたように思う。ジェニーが聞き込みに回るなかで質問相手の誰に対しても、「あなたを責めてるのじゃないのよ」と繰り返し付言していたことが印象深い。




推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1960494811&owner_id=3700229
 
by ヤマ

'17. 1. 8. あたご劇場



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