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『ぼくのエリ 200歳の少女』(Lat Den Ratte Komma In)['08] | |||||
監督 トーマス・アルフレッドソン
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五年前にリメイク作品の『モールス』['10]を観たとき、もうオリジナルのスウェーデン映画のほうは劇場で観ることが難しかろうと思っていたのに、思い掛けなくも今頃になって上映された。期間限定映画館ウィークエンドキネマMのオープニングプログラムにスウェーデン映画の異色作『ザ・トライブ』を取り上げた縁なのだろうか。ラインナップ編成の担当者が北欧映画ファンのようだ。されば昨年だったか、あたご劇場にリクエストして叶っていない『悪党に粛清を』['15]も、もしかすると観ることができるようになるかもしれない。 ハリウッド映画『モールス』の観賞メモに「あの父親にも、オーエンと同じような形でアビー(クロエ・グレース・モレッツ)に命を救われた経験があったのだろう。そして、オーエンも彼と同じように生涯をアビーに捧げ、最後には己が生き血をも捧げて、歳を取らない永遠の12歳に尽くすのだろうか。女の魔性に魅入られた男の運命というのは、そんなものなのかもしれない。自然界の雌雄の摂理の多くがそのことを率直に物語っているような気がする」と記したことが、そのままオーエンならぬオスカー(カーレ・ヘーデブラント)とアビーならぬエリ(リーナ・レアンデション)の間にも描かれていて、更には、不用意にもオスカーが「互いの血を混ぜ合わせよう」などと言って血を滴らせる場面が実に印象深い形になっている部分も含め、リメイク作品がかなり健闘していたことを確認できたように思う。 そして、やはり最後のモールス信号が実に利いていた。リメイク作品の邦題が『モールス』になったのも道理だ。生き延びるためには何かの犠牲を必ず要するのが“命の宿命”というわけだが、その犠牲を何に対して求めることが道理として許容されるべきなのかは、実に難しい問題だと改めて思う。折しも『光をくれた人』['16]を観たことで、まさしくエリがオスカーにとっての“光をくれた人”であったことを想い、よりいっそう味わい深く感じられた。 エリは、人類一般にとっては紛れもなく残忍なる存在なのだが、滴る血を見てもオスカーのために我慢し凝視しつつ堪える姿や、オスカーのちょっとした嫌がらせに全身から血を吹き滲ませて見せる憤りに窺えるイノセンスがたまらなかった。12歳の面影のなかにときどき浮かぶ200歳の老婆の顔に凄みがあって、二つの顔を持つヤヌス神の名を取った孤島を舞台にした『光をくれた人』の原作小説の主題にあったと思われるものが本作にも象徴的に込められていたような気がする。ある意味、女性の本質をそこに観ていたのかもしれない。 | |||||
by ヤマ '17.12.24. ウィークエンドキネマM | |||||
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