『火花』
監督 板尾創路

 幸か不幸か、強い思いで囚われる「したいこと」に僕は出会わなかったために、かなり若い時分から「知足を悟る」と言えば聞こえがいいけれども、手近なところでの程の好い喜びと満足を得ることに精励してきた。それは小心者であるがゆえのことなのかもしれないがそれだけに、本作に描かれたような生き方に臨む人の“勇気”と呼ぶにも足る懸命さが、なんだか眩しく感じられた。

 徳永と神谷を演じた二人の役者が気に入りであることが作用したのかもしれない。とりわけ徳永を演じた菅田将暉が好もしかった。もしかするとセトウツミがあっての起用だったのかなと思ったりした。

 僕は今のTVで流れている“お笑い”に肌が合わず、時に不快感すら催すのだが、芸人というのではないゲイ人を重用しているTVの傾向は“テレビお笑い”以上に気に入らないでいる。本作で徳永が神谷(桐谷健太)を諫めた台詞にもあったように、本当はそうではないのにオネェやオカマ、ゲイを装っている輩も実際にいるのだろう。だから、そのあたりを率直に刺している部分には快哉を挙げ、原作小説を読んでみたいと思った。

 TVの芸人番組は好きではないのだが、内村光良の撮ったボクたちの交換日記は漫才ものながらなかなか良くて、観た年のマイ・ベストテンに選出した覚えがあるし、落語は割と好きで、ときどきライブにも行くくらいだし、文庫本の『志ん生 人情ばなし』とかを持っていたりする。奇しくも本作を観た翌日にNHKのファミリーストーリーで色街に育った桂歌丸の回を観ていて、若かりし頃に彼が高座で本物の蕎麦をひたすら食べて一言も喋らずに最後に「おソバつさまでした」と告げるネタを考案して演じたということを知った。そんな落語は観たことも聞いたこともなかったので、すっかり驚いた。そして、映画のなかでは、徳永が「神谷さんは凄い」と言っていたことの凄さがどこにあるのか、よく判らないままだったが、エンターテイナーであろうとすること以上に、表現者たらんとしていたことなのかもしれないと思った。

 誰も観たことのない漫才を考え出してやるのだとの意気込みは「おソバつさま」をやった桂歌丸にもあったであろう気概に違いない。さすが歌丸師匠は、その最後の一言でドッと笑いを取ったらしいのだが、それにはそれまでの蕎麦の食し方の動きリズムスピードにも工夫が凝らされていたからであろうことは想像に難くない。神谷の芸には、そこに及ばぬところがあっての気概倒れに留まっていたということなのだろう。さりとて、ふりしてウケに阿るようになっては神谷は神谷でなくなるわけだ。徳永が神谷に初めて見せた非難に項垂れて「もう言わんといてくれ」と洩らす桐谷健太の風情が絶妙だった。

 思えば徳永の見せた、笑いを取りに来ずに泣きを誘ってくる漫才という掟破りは、いっさい噺をせずにオチの一言で締めるという落語の掟破りにも通じるところのある“誰も観たこともやったこともない漫才”と言えるのかもしれない。
 
by ヤマ

'17.12.22. TOHOシネマズ2



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