『標的の島 風かたか』
監督 三上智恵

 思いのほか観客が少なかったのは、きっと解散総選挙によるものなのだろう。政治的な活動に関わっている人々にとっては、いま映画どころじゃないからのような気がした。さすれば、今までの上映会においても一般客というのは、これくらいのものだったのかもしれない。

 それはともかく、『標的の村』『戦場ぬ止み』と観てきているのに、こうして新たな作品を観ると、沖縄の置かれている理不尽な状況に、やはりまた心がざわめいてしまう。宮古島や石垣島のことは、新聞の小さな記事で垣間見るだけだったから、アメリカの「エアシーバトル構想」のフロントラインとしての戦略に自衛隊が加担させられている姿を目の当たりにしたように感じた。

 司法調停による辺野古の工事中止勧告に政府が応じたとき、山城博治沖縄平和運動センター議長があんなに涙して喜んでいる姿は初めて観たし、その後の程なき工事再開や彼の逮捕と長期拘留を知っていただけに、なんだか心苦しく感じた。

 三年前、標的の村』を観たときの日誌に、公道への座り込みだから、米軍も防衛省も出る幕ではなく公安の所管になるので、沖縄人が現場職に就いている沖縄県警が前線に立たされるのは制度的必然だけれども、問題の本質は公安問題ではないことが歴然としているから、まさに手の込んだ沖縄人分断作戦のようにさえ見えてくるのが堪らなかったと綴った部分は、本作においても各地から派遣されてきた警察機動隊の若き隊員の捉え方の端々に窺え、公務に就く者としての不本意を押し込めるように表情を消した顔を映し出していた。マス・メディアでも取り上げられた“土人事件”には全く触れず、むしろ七尾旅人の唄う♪兵士Aくんの歌♪に重ねられる形で、戦場に送られる兵士の苦衷を描き出しているところが、作り手の流石の見識だと思った。

 ヘリパッド建設に抗議する沖縄県民を土人呼ばわりした大阪府警の機動隊員にしても、無知なるままに似非右翼のネトウヨなる輩の撒き散らす暴言に感化されているのだろうが、かような“戦地”に送り込まれなければ、生身の人間に対して面と向かって「ボケ、土人が!」と罵るような行動をみせたりまではしない気がする。市民による抗議活動どころではない苛烈さに見舞われる実際の戦場に送り込まれた若き兵士たちのなかに、平素からは懸け離れた非人道的な振る舞いを見せてしまう者が現われるのは、古今東西における“人間なるものの普遍的な在り体”であって、単に個人的な人格教養の問題や訓練教化の問題によって克服できるものではない。沖縄の米軍基地に送り込まれている米兵や軍属のなかに、沖縄女性をレイプし時に殺害までしてしまう者が現れて絶えないことにも、大阪府警の機動隊員の暴言問題と通底するものがあるような気がする。

 二年前に戦場ぬ止み』を観たときの日誌で触れた国家権力が凝らす手管の姑息さは、本作での“為にする”駐禁設定や検問においても、沖縄本島を落とすために宮古島や石垣島を米軍を前に出さずに進める手筈においても、如実に窺えるように感じられた。宮古島に関して防衛副大臣の明言した約束が「あの時点では」のものになるのは、何年後なのだろうなどと思わないではいられなかった。

 折しも衆院解散総選挙のさなか、本作を観た翌日に高江の牧草地に米軍の大型輸送ヘリコプターが墜落し炎上したと報じられた。日本政府のコメントは“遺憾”で、地元住民や高江のある東村村長の表明した“憤り”とは懸け離れている。スペインではカタルーニャ地方の独立を問う住民投票を実施され、独立派が九割を占めたことが報じられたが、沖縄でいま住民投票が行われたら、どのような結果になるのだろう。僕の住む高知でさえやっちゃれ、やっちゃれ! [独立・土佐黒潮共和国](坂東眞砂子 著)といった作品が出てくるくらいだから、スペインのカタルーニャ地方やイギリスのスコットランド地方のようなことが起こっているのではなかろうか。まだ報じられていないだけで、嘗てとは様相がかなり違ってきているような気がしてならない。
 
by ヤマ

'17.10.10. 美術館ホール



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