『標的の村』
監督 三上智恵


 ベトナム戦争時の沖縄に実践訓練のための模擬集落が作られ、ベトナム人の役を務めるために地元民が駆り出されていたという“ベトナム村”のことは知らなかったが、生々しい記録画像を観ながら、あまりのことに絶句した。

 その他のことは殆ど、知識としては知っていることなのに、“知っていることが些かも分っていることにはならない”ことを改めて思い知らされるような気がした。やはり映像と肉声の持つ力は大きい。だが、映像と肉声に触れたからといって、分ったことにならないのには変わりがない。

 しょせん第三者として観るほかないのだが、高江村の米軍ヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)造成工事に着手しようとする防衛施設局職員と反対地元民、普天間基地に入るゲートを座り込みで封鎖した沖縄県民とそれを排除しようと実力行使する沖縄県警、現場でぶつかり合っている者同士のどちらに正当性があるかは、その発する言葉の調子、表情からして、あまりにも明らかで涙なくして見られない。「真っ先に座り込んだのは、あの沖縄戦や米軍統治下の苦しみを知る老人たちだった」とのクレジットに痺れ、子供や孫を率いてリードし、非暴力不服従のガンジー精神を見事に体現している姿に、芯から心打たれた。興奮して殺気立ってくる己が怒りを制御するために唄うことで落ち着こうとしているように見受けられた場面に、鼓舞するための唄ではなく、非暴力を貫くための唄を見て、その民度の高さに感動した。いかにも沖縄らしい唄文化で、こういうものこそが真の文化だと瞠目させられた。何十年もの時間のなかで虐げられ続けている歴史が培い鍛え上げた“民の靭さ”は、その振る舞い、言葉の調子からして、職務として防衛施設局から来た職員や政府高官が太刀打ちできないレベルにあることが明白だ。

 機動隊とのせり合いのなかで、「なぜウチナンチュー同士でやりあわなければならないの? 今ここに米軍も県外の人も来てないんだよ。」と沖縄県警の警察官に訴える女性の言葉に、そして、その言葉に対して能面のように表情を消そうとし、視線をそらす警察官の姿に、激しく胸が痛んだ。公道への座り込みだから、米軍も防衛省も出る幕ではなく公安の所管になるので、沖縄人が現場職に就いている沖縄県警が前線に立たされるのは制度的必然だけれども、問題の本質は公安問題ではないことが歴然としているから、まさに手の込んだ沖縄人分断作戦のようにさえ見えてくるのが堪らなかった。

 国が国防を口にするとき、決して国民のことを考えてなどいないということを、これだけ判りやすく鮮明に捉えた作品は、そうそうあるものではない。しかも、地元とは言え、テレビ局が製作しているところが凄い。マスメディアが本来担うべき役割は、こういうところにあるはずなのだと、商業主義と市場の原理に浸かりきった東京のキー局の惨状を改めて思った。チラシに記されていた「全国ニュースから黙殺されたドキュメント」との現況に対し、せめても本作を放映するくらいの気概を見せてほしいものだが、叶わないのだろう。

 一週間前に観たフタバから遠く離れてもなかなかのものだったが、本作には、それをも凌ぐインパクトがあった。第87回キネマ旬報ベスト・テン「文化映画ベスト・テン」の1位に選ばれたのは、東京の映画人が集まる山形国際ドキュメンタリー映画祭で 「市民賞」と「日本映画監督協会賞」のW受賞をした余勢によるものではないかという気がしているが、何であれ、本作が陽の目を浴びることに一役買うのであれば、大いに意義のあることだという気がする。




推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/14050503/
推薦テクスト:「合同会社 東風」より
http://www.tongpoo-films.jp/news.html#/detail/4600883685094834364
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/aedecc3b0a37772b3c8d7d5a24d28a99
by ヤマ

'14. 1.23. 美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>