『土佐の一本釣り 〜久礼発、17歳の旅立ち〜』
監督 蔵方政俊

 三年ほど前だったか、ロケ地中土佐町での試写上映会の告知をみた後、音沙汰がなくなり、昨年あたりから東京・大阪での公開情報が伝わってきていた地元ゆかりの作品を高知の劇場でようやく観ることができた。

 今は亡き田中好子の映画デビュー作である土佐の一本釣り['80]のときは勿論、原作漫画がヒットした'70年代後半に主人公たちとちょうど同じ年頃の者として読んだ際にも、高度成長期に失われたと思しき日本文化の残る田舎の漁師町として、いささか時代錯誤的な価値観が、特にジェンダー的な側面において強調されていた感のある作品世界を、平成の時代にあって、どのように映画化しているのか、そして、いかにも昭和の時代の映画らしい性的大らかさを前面に出すなかで“純情”を浮き上がらせる手法を取っていた覚えのある作品をどのようにリメイクしているのか、というあたりの興味を持って臨んだところ、およそ洗練とは縁のないというか、むしろ積極的に“洗練”に背を向けている作品世界に相応しいとも言うべき、ナレーションの多用や音楽の入れ方に、これは狙ってやっているに違いないと笑みが漏れた。ちらりと映し出されただけで、絵柄がじっくりと見えなかった絵馬提灯に描かれていたものが何だったのか気になっているのだが、どうも性的シンボルだったような気がしている。

 四十年近く前の前作にあった、男根然とした御神体に女たちが秘所を見せ合う“チラ見せ”なる奇習は登場しなかったし、映画日誌に儂ぁ商売女は、なんぼでも買うけんど、素人は八千代一人と決めちゅうという純平の台詞が彼の男気と純愛を示すものとして通用したのは、昭和の何年頃までのことだったのだろう、と記した台詞も登場しなかったが、原作漫画の持ち味は十分汲み取られていたように思う。平成の今への時代の変化を反映して、漁師町における体験型観光への取組みが描かれ、女性の強さの表現が実にストレートな形に変化していることが興味深くもあった。

 原作漫画でも前作でも本作でも、相変わらず観ている者を少々苛立たせるダメ純平と出来過ぎ八千代のコンビなのだが、今回、純平を演じた中島広稀には、純平のキャラにおいて絶対に欠くことのできない“愛嬌”がしっかり備わっていた点に感心した。

 御当地映画の方言遣いをどこまで徹底するかは、全国公開を視野に置く際の難問だろうが、いくら平成の時代とはいえ、田舎の生活者の日常会話で「少し」は使わないだろうと思ったりし、土佐弁感覚の点ではMAZE~マゼ[南風]['05]のほうがよくできていたような気がした。もっとも土佐弁ということでは、『MAZE』は、監督自身が高知出身だったから撮影現場にかなりの違いがあったろうという気がしないでもない。

 とはいえ、純平に「直球、直球」と諭しながら自分は言えないでいる兄やん勝(渡辺大)が純平に求め、八千代(森永沙良)が大事ながは他人と比べることじゃのうて、昨日の自分より今日の自分はどうかと、真っ直ぐに生きることじゃろが!と純平を叱咤することで強調していたものが、やれ“KY”だとか“忖度”だとかいったことが取りざたされる“同調圧力に満ちた時代”を迎えているなかにあって、清々しく際立っていたように思う。

 
by ヤマ

'17. 5. 4. あたご劇場



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