『こころに剣士を』(The Fencer)
監督 クラウス・ハロ

 1950年代のスターリンによる圧政下にあったエストニアでの実話による作品とのことだったので、観る前は、悪名高きスターリン治世を扱った映画に対して今更ながらに思うところもあった。だが、観ているうちに、国家権力による監視体制の強化が進んだ社会の怖さ、息苦しさが、何だかかつてのようには他人事ではなくなってきている感じを覚えて、ゾッとした。

 思えば“国家権力による監視体制の強化が進んだ社会”というのは、70余年前の敗戦前の日本がそうであったように、また本編上映前に流れた予告編『トランボ』の頃のアメリカがそうであったように、畢竟、隣人監視の進んだ社会に他ならないわけで、本作の校長のように、それを自ら正しいとする口実を与えて“一般人”の妬みや腹いせといった悪感情を助長させる社会が出現することを言うのだろう。昨今の我が国に急速に蔓延ってきている“不寛容”と背中合わせなのが実に怖ろしい。

 それにしても、フィンランドの映画監督が何ゆえ、エストニアの知られざる(っぽい)ヒーローとも言うべき嘗てフェンシングの花形選手だった体育教師エンデル(マルト・アヴァンティ)を映画にすることになったのだろう。それはともかく、本作において最も“こころに剣士を”抱いていたように思えるヤーンの祖父(レンビット・ウルフサク)が渋くて、とても良かった。

 あの爺さんが、校長を“忖度”することなく、最初にフェンシング部の支持表明をすることで追随する保護者たちを引きだすことがなければ、フェンシング部自体が廃部になっていたはずだ。もしかすると、ヤーンの祖父の逮捕劇にも校長が一枚かんでいたやも知れぬと思わせる描き方が、隣人監視社会の怖さの本質を鋭く突いていたように思う。社会正義の名の下の告発がまさしく口実であることを自覚している内心を窺わせ、幾許か忸怩たる風情を漂わせていた校長の人物造形に深みがあった。そこには、彼の品位を損なわしめた“権力による監視体制”の存在を浮き彫りにする効果が窺えたように思う。
 
by ヤマ

'17. 5.12. 美術館ホール



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