『美女と野獣』(Beauty And The Beast)
監督 ビル・コンドン

 25年前に観たアニメ版『美女と野獣』['91]は、その年のマイベストテンにこそ選出していないものの、僕の記憶のなかでは破格の作品で、今さらながらのその実写版ということに少々懸念があったが、いやはや観て驚いた。今の技術だからこそできるアニメ顔負けのファンタジックな映像に、大いに目が喜んだ。とりわけ♪Winter turns to spring Famine turns to feast ♪との歌詞と共に、野獣の居城が姿を変え始めた終盤の場面の圧巻に魅了された。

 しかも、今さらながらどころか、この反知性主義と強権主義が世界を席巻し始めている今こそ、本作に謳われた“ビューティ&ビースト”が問われていることが改めて沁み入ってきたように思う。村で変わり者と言われていたベル(エマ・ワトソン)が大の読書好きで、彼女が野獣(ダン・スティーヴンス)を見直し、外見からは窺い知れぬ彼の繊細さを認めるようになるのも、その豊富な蔵書と読書歴を知ることを通じてであることが明確に示されていて、そのことが目を惹いた。25年前のアニメーション作品では、その説得力を二人で踊るダンスシーンの流麗さに負わせていたような印象があって、それはそれで見事に嵌っていた記憶があるが、本作のほうがより深化しているような気がする。

 その一方で、ガストン(ルーク・エヴァンス)というよりも“下衆トン”とでも呼んでやりたいような、結局は何の頼りにもならない腕力を誇示し威勢のいい強弁を振るうだけの、著しく知性と品性を欠いた粗忽者を英雄視する民衆の愚かさが浮き彫りにされていた。前作では、ここまで酷い下衆っぷりではなかったように思うガストンを、卑怯な狡さまで徹底させたうえで民衆が煽られる姿を描いたことについては、おそらく確信的に、今の時代を意識してのものがあったような気がしてならない。唾棄すべきパーソナリティのマッチョ男の誇る特技が唾飛ばしで、それが女性たちの喝采を浴びている図などという強烈な場面さえ用意された痛烈さに作り手の憤慨の程を感じないではいられなかった。

 そうしてみると、ベルの体現していた“ビューティ”とは即ち、支配欲の権化たるガストンの対極にある「good conscience」としての“良心”なのだろう。そして、野獣は魔女に呪いをかけられ、孤独を知ることで読書に耽ることを覚え、育まれたデリカシーに、共感と愛を注がれることで「景色が違って見えてくる」ことを知り、野獣から人間に更生することを得たというわけだ。造作そのものは変えずに野獣の顔つきや表情を次第に柔らかいものに変えていったCG技術が素晴らしい。

 不寛容と敵意による分断が進み、冷え冷えと荒んできつつあるこの世界にも ♪Winter turns to spring Famine turns to feast ♪となるような叡智の取戻しが必要だと思う。

 三年前に観たフランス版の実写美女と野獣['14]には、ディズニー映画にはない“大人の香り”が満ちていて魅了されたが、ディズニー版の実写作品なら、まさにこれ以上のものはあるまいと思える快作で、聴き覚えのある数々の楽曲が気持ち良く響いてきた。ミュージカル意匠の元作の趣向をそのままに今さらながら実写化することへの懸念を払拭してくれる以上の、想外の出来栄えで大いに感心させられた。さすがハリウッドメジャーの底力だ。大したものである。




推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-df55.html
 
by ヤマ

'17. 5. 1. TOHOシネマズ4



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>