―イタリア・ネオレアリズモの軌跡―
ルキーノ・ヴィスコンティ 生誕110年 没後40年 メモリアル

『郵便配達は二度ベルを鳴らす デジタル修復版』['42]
『揺れる大地 デジタル修復版』['48]
『若者のすべて デジタル完全修復版』['60]

 ヴィスコンティの映画は、僕が映画鑑賞の深みに足を踏み入れた '80年代にちょうどブームになったことから過去の未公開作が続々と公開されていて、その先駆けとなったのが第1作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の '79年5月26日の有楽シネマでの日本初公開だったようだ。奇しくもその月の29日に僕は観ていて、それ以来となる再見であった。

 四十一年前の大学入学したての '76年4月に『ベニスに死す(1971)を早稲田松竹で観て、大いに退屈した覚えがあったのに、三年後に鳴り物入りの日本初公開を26日の公開初日ではないにしても、同月中には有楽町まで足を延ばして観に行っていたのが何故なのかは、三十八年経った今となっては思い出せない。

 以降、僕が観ているヴィスコンティ作品は、高知に戻った '80年5月の家族の肖像 (1974)、同年9月の『地獄に堕ちた勇者ども(1969)、翌 '81年11月の『ルードウィヒ/神々の黄昏(1972)、'83年2月の『ベリッシマ(1951)、同年11月の『熊座の淡き星影(1965)、'86年7月に自分たちで上映した『白夜(1957)、'88年11月に同じく自分たちで上映した『異邦人(1968)、2011年2月の【午前十時の映画祭 青の50本】での山猫(1963)というのが、僕の手元に残っている記録に挙がっているものだ。

 三時間に及ぶ『若者のすべて』は、嘗て上映を検討しながらも叶わなかった作品だが、今回、思い掛けなくも完全修復版という形で観ることができた。これであと残すところは、遺作の『イノセント (1975)』『華やかな魔女たち(196671)』『ボッカチオ'70(1962)』『夏の嵐(1954)』『われら女性(1953)の5作品となった。

 今回の前期3作品を観て、いずれにも共通しているのが貧困問題であったことが印象深い。とりわけ『揺れる大地』は、コミュニストでもあったヴィスコンティの想いが強く出ていて、大いに感じ入るところがあった。ブーム時のバブル景気に浮かれていた '80年代に観ても、今さら貧困問題かと少々古めかしく映ったかもしれない前期のヴィスコンティ作品は、今のほうが訴求力を増しているように感じられる。嘗て一億総中流と言われた日本でさえ、小泉政権下“頑張った者が報われる社会”などというスローガンとともに、例外的にしか起こりはしない現象に“トリクルダウン効果”などという言葉を冠するだけで原理化して吹聴する実に非学問的な竹中平蔵路線に舵を切ることで、ブラック企業を生み出す搾取収奪構造の推進と嘗て日本的経営とされた企業文化の破壊を行なったことによって、今や貧困問題が社会問題となり、子供に充分な食事を与えることのできない家庭のために地域の善意によって食事を提供する“こども食堂”なるものが各地に出現するに至っているからだ。

 三年前の沖縄県知事選挙の1万人うまんちゅ大集会で今は亡き菅原文太が政治の役割はふたつあります。ひとつは、国民を飢えさせないこと。安全な食べ物を食べさせること。もうひとつは、これが最も大事です、絶対に戦争をしないこと。と語っていた演説のことを思い出した。

 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』のジョヴァンナ(クララ・カラマイ)にしても、満足に食えないからこそ歳の離れた肥満親父ブラガーナ(ファン・デ・ランダ)と結婚して彼の経営する食堂の料理女に身をやつしていたわけで、それによって鬱積したものがなければ、流れ者のジーノ(マッシモ・ジロッティ)に妄執を抱いたりはしなかったはずのものとして描かれていた気がする。その点で『チャタレー夫人の恋人』のコニーがメラーズに溺れたのとは異なるものがあったように思う。たとえ同じように、剥き出しになった逞しい肉体に見惚れる場面があったにしても、性的渇望が引き金になっていたにしても、確かに異なるニュアンスが宿っているような気がした。

 『揺れる大地』に描かれた仲買人による漁民の搾取や銀行による資産収奪は、漁民の貧困状況を映し出すこと以上に、搾取への異議申し立てを企てた弱者が、それゆえに強者から潰されてしまう社会構造を描いていた点で、より踏み込んでいるわけだが、漁民のなかでは親方として威勢のよかったウントーニ(アントニオ・アルチディアコノ)でさえも、実に脆いものだった。しかもそこに、彼の迂闊さというか甘さが透けて見え続けていただけに、余計に痛ましい気がした。

 『若者のすべて』のパロンディ一家も貧しさから抜け出ることを夢見て南部地域から言葉も違うミラノに主人の死を契機に長男ヴィンチェンツォ(スピロス・フォーカス)を頼って出てきていた。家賃を払えずに立ち退きを迫られた貧困家族に与えられる光熱費も要らない公営施設暮らしから始まる一家の五人兄弟の生き様を追った物語だ。裕福な娘ジネッタ(クラウディナ・カルディナーレ)を射止めて無難な家庭を手に入れた長男、兄よりはボクシングに才を見せて成功しかけたものの、苦もなく手に入れた成功と女に身を持ち崩した次男シモーネ(レナート・サルヴァトーリ)、自身は格闘を好まぬものの兄二人に勝る才を発揮してボクシングで身を立てることになる三男ロッコ(アラン・ドロン)、学業に精出しアルファ・ロメオ社の工場に就職を果たし良縁も得る四男チーロ(マックス・カルティエ)、貧しくとも一家で力を合わせて生きられた南の田舎での生活を懐かしむロッコから故郷にパロンディ家の根を残しに戻ることを託される五男ルーカ(ロッコ・ヴィドラッツィ)の五人五様の生き様が描かれる。そこに、個人的資質が人生に作用する度合いと同時に、付き合う男【環境】次第で人生ばかりか人格まで変転する人間なるものの姿が、印象深く象徴的に据えられた元娼婦ナディア(アニー・ジラルド)の存在によって描き出されていて、実に観応えがあった。

 一日観賞券ということで併せ観た『リングサイド・ストーリー』(監督 武正晴)が、ボクシングではなくともK1という格闘技を始めることになる目の出ない役者の村上ヒデオ(瑛太)を奇しくも主役に据えたストーリーだったことが目を惹いた。ヒデオというより、ヒデェヨオという他ない“男のクズ”っぷりが、『若者のすべて』で弟のロッコからもチーロからも、更には同棲していた元娼婦のナディアからも、“人間のクズ”と言われて激昂していたシモーネを彷彿させる作品だったのだ。それだけに、両作の顛末の差異が際立っていたのだが、カナコの母親(余貴美子)に「いまどき、夢を見させてくれる男は貴重よ」という台詞を置いた脚本に「どこが“夢を見させてくれる男”なんだ」と、その余りにもの甘さに呆然とした。

 少なくともチーロにロッコの寛大さを嘆かせていたくらいのことは、カナコの財布から金を抜き取ってのパチンコ三昧や、才を発揮する者への妬み、カナコの浮気を勘ぐっての暴挙といったヒデオの行状にも言えるわけで、それを許しているマネージャーの百木(近藤芳正)にしても、江ノ島カナコ(佐藤江梨子)にしても、そのことを少しは咎められるべきだと思われるのに、と呆れた。『若者のすべて』とは勿論、企図するところ自体が異なる作品なのだが、その脚本の差異は紛れもないものだったように感じる。  
by ヤマ

'17.12. 9. ウィークエンドキネマM



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