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『許されざる者』 | |||||
監督 李相日 | |||||
潤色脚本としてクレジットされていた李相日のオリジナル作品に対する応えと工夫がとても興味深く、少々興奮しながら観た。 マニー:釜田十兵衛(渡辺謙)の消息を決定的に違えたこと、先住民をネッド:馬場金吾(柄本明)の妻から十兵衛の妻に置き換えたこと、キッド:沢田五郎(柳楽優弥)を先住民と開拓者=侵略者のハーフに設えたことによって、オリジナル作品よりも30倍くらい分りやすくなっていることを是とするか非とするかはともかく、その改変が在日三世の李相日としての必然を感じさせてくれる納得感に唸らされるとともに、オリジナル作品への敬意に満ちていることに感心した。 マグダラのマリアならぬ娼婦たちによって、吊り下げの晒しものから降ろされた金吾の姿が、まるでピエタを思わせる図になっていたのは少々やりすぎかとも思ったが、大石一蔵(佐藤浩市)から責め殺しの目にあわされても口を割らずに貫徹した殉死という形にはなっていた。だが、オリジナル作品の開始早々に、やたらと生々しく印象付けられていた、切り裂き騒動の悲鳴に驚いて事の最中に中断した娼婦が股間を開いたまま布で拭い取る場面が、邦画版では割愛され踏襲されていないと思ったら、お梶(小池栄子)が賞金払いのツケで相手をしてやった後に、立ったまま股間を布で拭き取る所作をきちんと入れた場面になって登場していて、感服させられた。 また、二十年ぶりにオリジナル作品を再見して綴った映画日誌に「このビル・マニーの物語というのは、…ボーチャンプが主にキッドから聞き取って残した物語なのではないだろうかという気がしてきた」と記していた部分について、本作ではまさしく十兵衛がボーチャンプ=姫路弥三郎(滝藤賢一)に対して、ここで見聞したことを書くように命じる場面が設えられていて、李相日もオリジナル作品に対して同じような思いを持っていたのだなと何だか嬉しくなった。 オリジナル作品に散りばめられていた語りと騙りについての指摘も、本作では「勝ち残った側が正義で、負けたほうが悪となる(事実の如何とは関係ない)」という台詞になって明示されていたし、是非もないはずの物語が、とても是非のはっきりした物語に変貌しているような印象を持った。 例えば、オリジナル作品では、イングリッシュ・ボブがボーチャンプに語っていた武勇伝がまるで事実とは違う騙りであることを保安官が彼の眼前で暴き立てるわけだが、ボブがそれに反論しなかったからと言って、保安官の言い分が事実とは限らない。まして、ボブはビルに収監されている立場だから、異議の唱えようがないのだが、ボブが反論しないことを以て、ボーチャンプは実にあっさりと、ボブの話が嘘でビルの話が本当だと受け取ったように描かれる。そこで、聴き書きの相手をボブからビルに乗り換えるのだが、今度はビルのボーチャンプへの語りが最前のボブとほとんど同じ風情であることが皮肉なまでに描き出される。観客としては、先刻のビルの暴き立てが本当に事実だったのかますます怪しくなるといったところがオリジナル作品の醍醐味だったような気がする。 ところが、李版アダプテーションでは、ボブ:北大路(國村隼)が、抜けない太刀の仕掛けを大石一蔵に「またこんな小細工しやがって」と暴かれる形になっているから、彼の姑息さが明々白々の事実ということになってしまう。人の話においても人の生においても、是非もないこと、判じ難いことに満ちているのが世の理とする曖昧模糊が、すっかり削ぎ落とされるから、極めて判りやすくなるわけだ。 歴史的事実とされるようなことについても、勝ち残った側が正義で、負けたほうが悪となるという形で明瞭に整理されるのと同様に、これは李版アダプテーションにおいて際立っている特徴で、そのどちらの描き方がいいのかは、好みの分れるところだが、いずれにしても、オリジナル作品のディーテイルを細やかに踏まえる一方で、本作が敢えて明らかに違えている点は、まさにここのところだという気がする。 オリジナル作品の映画日誌に、とどのつまりは「神妙に『殺人ほど悪辣な所業はない、人の過去も未来も奪ってしまう』などと述懐するマニーが誰よりも数多くの人を殺して生き残り、それによって得た大金で西海岸に渡り、成功を収めたらしいとの顛末で締め括られる物語」と括った部分に関しては、その述懐についても成功についても、そっくりそのまま抜け落ちてしまっているアダプテーション作品を観つつ、その踏襲部分と潤色部分のどちらにも、納得と感心を覚える上々の作品だったように思う。 全く同じ年代の日本にスライドさせ、戊辰戦争この方の残党狩りを背景にすることで、十兵衛の人斬りに対して、マニーには添えられていなかった納得できる事情説明を加えて不可解さを削いでいるのは、非常に巧みなアダプテーションで、本作の判りやすさの根幹をなす部分だという気がする。 そして、前述のマニーの述懐部分とともに李版で改変したマニーの成功の消息についての李監督の解釈は、噂された“手に入れた賞金を元手にした西海岸での成功”というのは金鉱を掘り当てたことなのだろうと思った。だから、本作での金吾に“石炭を掘り当てる夢”について語らせているわけだ。 そこで重要なのは、金吾に「あれは嘘だった」と言わせている部分で、あれは賞金稼ぎに十兵衛を誘い入れるための方便だったとしているのだが、オリジナル作品でネッドを巻き込んだのは、むしろマニーのほうだったから、ちょうど逆になっている。なぜそうしたのかは、おそらく「あれは嘘だった」と言わせたいがためのものだったという気がしてならない。つまり、オリジナル作品のマニーは、決して金鉱を掘り当てて成功したりはしていないと自分は解釈していると李監督は言いたかったのではなかろうか。 李監督のその解釈には、大いに共感できるものがあったのだが、さりとて僕は、本作で描かれたように、五郎となつめ(忽那汐里)に賞金を託して子供に届けるよう言づけ、子供を捨てて消息不明になるというのにも違和感ありで、もし消息不明になったとしたら、あくまで野垂れ死にをしたということなのだろう。本作では、十兵衛は腹を刺されて重傷を負っているのだから、李監督も子供の元に帰ろうとして辿り着けなかった、としているような気がした。 オリジナル洋画とアダプテーション邦画のどちらを好むかは、人それぞれあるのだろうが、両方ともAクラスの作品であることは論を待たないことのように思う。なかなか大したものだ。 推薦テクスト:「チネチッタ高知」より http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/13100501/ 推薦テクスト:「雲の上を真夜中が通る」より http://mina821.hatenablog.com/entry/2013/09/20/153158 推薦テクスト:「大倉さんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1912665747&owner_id=1471688 | |||||
by ヤマ '13. 9.23. TOHOシネマズ3 | |||||
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