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『孤独のススメ』(Matterhorn) | |||||
監督 ディーデリク・エビンゲ
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長年の確執がとける“親子の和解を示す最後の場面”が素晴らしかった。ステージで♪ This Is My Life ♪を歌いながら父親の姿を観留めた息子ヨハン(アレックス・クラーセン)と父フレッド(トン・カス)の互いを見つめ合う表情が絶妙で、アレックス・クラーセンの歌声が、『チョコレートドーナツ』のルディを演じたアラン・カミングの熱唱を思い出させてくれるような圧倒的な力を持っていた。ヨハンが少年だった頃の美声を思い出しながら、こみ上げてくるものを飲み込んでいたとき、フレッドはいったい何を思っていたのだろう。万感の想いと共に、思わず息子の名前を叫ぶフレッドの姿に痺れた。 いかにも几帳面で堅物らしい規律正しさを好んでいる感じのフレッドには、息子が同性愛者に見えることが耐え難くて、愛する妻に咎められながらも息子を追い出した過去があるからこそ、近所の子どもたちから自分がホモ呼ばわりされたときに過剰なまでの激昂をしたようだ。妻に先立たれ、孤独な生活を営むなかで巡り合ったテオ・ハウスマン(ルネ・ファント・ホフ)に対して、宗教的戒めによる善行を施すためか、人恋しさを紛らすためか、迎え入れて同居するうちに、いつの間にか得た気づきや変化によって胚胎していたものが、テオの妻サスキア(アリーアネ・シュルター)の見守るなか、ヨハンの熱唱を凝視することで一気に芽吹いてきた場面だったように思う。 囚われていた偏見や不寛容を乗り越えることは、しんどく困難なことだけれども、マッターホルンのような高みに人の魂が登ることにも等しいのだと壮大に描き出していた、実に感動的なエンディングだった。 山の頂にも小道にも時として姿を現す山羊にもよく似た風貌のテオこそは、まさしくフレッドの元に遣わされた神の使いなのだろう。映画の冒頭で、バッハの残した言葉を引いて「音楽は難しくない、正しい鍵盤を正しい時に叩くことだ」というようなクレジットが出ていた気がするが、“本当の意味での正しさ”をきちんと知ることこそが最も難しいわけだ。戒律に対して至って忠実だったらしいフレッドにしても、テオと暮らすフレッドを糾弾していた隣人のカンプス(ポーギー・フランセン)にしても、ある種あやまった正しさに囚われていて、そこから抜け出せないからこそ不幸なのだ。 しからば、“本当の意味での正しさ”というのは何だろうということについて、作り手の示していたことは、奇妙だと感じることに囚われず、人を喜ばせ慰めるのが正しきことで、人を苦しめつらい思いをさせるのが正しくないことだという本質をきちんと見極める叡智というものだったような気がする。テオと一緒に戸別訪問による動物ショー興行を行なうことでフレッドが知った喜びや役立ちの経験がなければ、その心がマッターホルンの高みにのぼることはできなかったに違いない。 そういう意味での正しき人を体現していたサスキアが、何日もの不在から戻った夫の出迎えの場面でも、フレッドに乞われ伴って観に行ったヨハンのステージの場面でも、とても素敵だった。そして、フレッドの元にテオを遣わしたのは、神ではなく彼の亡き妻の魂だったのかもしれないと思った。 参照テクスト:mixi談義編集採録 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20160504 推薦テクスト:「TAOさんmixi」より http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1952849843&owner_id=3700229 | |||||
by ヤマ '16. 7.24. あたご劇場 | |||||
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