『孤独のススメ』をめぐって | |
「映画通信」:(ケイケイさん) (TAOさん) ヤマ(管理人) |
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2016年07月27日 21:46 (TAOさん) >山羊にもよく似た風貌 むむ、山羊に似てましたか。私は「キリストに似てる」と思ったのです。キリスト見たことないですけど(笑)。スリムな体型もポイントですね。女性の服が入るところ。 サスキアは、ほんと素敵でした。神の使いはみんなのものだということがちゃんとわかっているんですよね。私は主人公がテオを隣の人に貸してあげるところも感激でした。 ヤマ(管理人) TAOさん、やっぱり御覧になってたんですねー。 テオは、キリストですか。神の使いではなく、神の子そのものってわけね。風貌的には確かにそっちを狙ってたのかもしれませんね。僕は、風貌と書きましたが、とりわけ眼なんですよ。あの眼は神のごとく包む眼でも、人のごとく口ほどにものを言う眼でもなく、実に虚心というか「人間的意思と感情を消失させた動物ならではの澄んだ視線」を感じたので、キリストよりも山羊のほうを思ったのでした。 フレッドは、隣人の告白に、無自覚なるままだった己が罪に気付いたんでしょうね。彼自身には全く思い掛けなかったに違いないんですが、彼は“奪う人”だったわけです。貸してあげるというような優位どころか差し出さずにいられなかったんでしょうね。 サスキアは本当によかったです。あの柔らかい手の仕草、痺れました(笑)。作り手には、女性の持つ内なる母性への信頼と憧憬があるように感じます。そのせいか、構文的には神の使いに他ならぬテオさえも、僕はフレッドの亡妻の魂が彼の元に遣わし、マッターホルンの高みへと導いたように感じています。 (TAOさん) ネタバレなしで書いているのでごく簡単な感想ですが、コメント欄では、ケイケイさんと泣きのポイントがほとんど同じ!と感激しながらふたりでワイワイ話してます。 ヤマさんの日誌、拝読しました。結びのところ、同感です! 亡き妻がテオを遣わし、息子と和解させ、あのマッターホルンの高みへと導いたに違いありません。 >作り手には、女性の持つ内なる母性への信頼と憧憬があるように感じます。 そうですねー。こういう作り手の作品を見るとじつに気分いいです。自分に内なる母性があるかは別として(笑) ヤマ(管理人) TAOさんのmixi日記、 >それにしても、これほど祝福に満ちた壮大なラストシーンはなかなかない。そして、こんな作品に出逢うと、映画が好きで本当によかったなあと思う。 いい結びだなぁ(拍手)。ホントに壮大でしたね。山羊まで現れるし(笑)。 >邦題の意図なんでしょうね。ちょっとうがちすぎかも… 同感です。僕的には「こどくのススメ」よりは「こころのタカミ」なんですけどね(笑)。 お二人の遣り取りに出てくるフレッドの笑顔の件、大事なとこですよね。拙日誌に「テオと一緒に戸別訪問による動物ショー興行を行なうことでフレッドが知った喜びや役立ちの経験がなければ、その心がマッターホルンの高みにのぼることはできなかったに違いない」と記した所以でもあります、あそこが。 拙日誌の末文への共感、ありがとうございます。フレッドに求められてヨハンのステージに同伴したサスキアが早々に席を立ちかけたフレッドを押し止めた手、ステージから父親をじっと見つめる息子の視線に拮抗してふんばるフレッドを励ますように背中から腕をそっと撫で下ろした手、とても雄弁でした。「こんな作品に出逢うと、映画が好きで本当によかったなあ」と僕も思います。 あのヨハンくん、なかなか芸達者なんですねー。↓ https://www.youtube.com/watch?v=5R8ilWR64zc (ケイケイさん) こんばんは。ハイハイと、今思い出しています(笑)。 >長年の確執のとける親子の和解を示す最後の場面が素晴らしかった。 ここで劇場、あちこちで嗚咽が聞こえるんです。今年は豊作ですけど、感動だけを捉えるなら、ぶっちぎりでこのシーンですね。 >本当の意味での正しさというのは何だろうということについて、作り手の示していたことは、奇妙だと感じることに囚われず、人を喜ばせ慰めるものが正しきことで人を苦しめつらい思いをさせるものが正しくないことだというものだったような気がする。 TAOさんともお話した、「ショー」で見せた、フレッドの飛び切りの笑顔のシーンも、爆泣きしました。長い事、笑うことなんか忘れたんだろうなぁと思うと、ひしひしフレッドの孤独を噛み締めました。奇妙だと感じると、「笑われる」になるけど、ニュートラルな目で観ると、「笑わせる」になるんですよね。笑わせるは、二方が喜びになる。この違いは、ものすごく大きいと思います。 サスキアは本当に素敵でしたね。色んな葛藤を経て、結局テオへの愛は、見守る事なんだと、悟ったんでしょうね。愛は憎しみに変わるけど、可愛いは憎しみにはならないんですって。それって、母性ですよね~(笑)。 ヤマ(管理人) ようこそ、ケイケイさん、 >感動だけを捉えるなら、ぶっちぎりでこのシーン 『チョコレートドーナツ』のアラン・カミングの熱唱場面も良かったけど、スケール感と歓びにおいて、本作のシーンのほうが上回っていた気がします。ディス・イズ・マイ・ライフもさることながら、ディス・イズ・ミー、ディス・イズ・ミーの繰り返しがとてもニュアンス豊かに響いてくる名唱でした。 >フレッドの孤独 長らく笑うことを忘れていたに違いないことが如何にも身に付いている感じのトン・カスの名演でしたね。笑われることと笑わせることの違い、という心の置き所の問題は、諸事万端に通じる非常に大事な人生の要諦ですよね。 サスキアの素晴らしさは、ケイケイさんがまさに映画日記にお書きのように「当初テオのためと思っていた事は、本当は自分がテオになって欲しかった事だったのでしょう。執着です。テオの幸せを一番に願う、それが愛する事だと学んだのだと思います。」というプロセスを経て得られたものなんでしょうね。執着を解脱した慈愛の高みにある人なのが所作の端々から滲み出てくる感じがアリーアネ・シュルターの好演によってよく出ていましたね。まさに仰るところの“母性”だと思います。 ケイケイさんの日記では、「何故そんなフレッドが得体の知れないテオの世話をしたのか?」との問い掛けによる考察が、とても興味深かったです。宗教的戒律への忠実さだけでは測れない部分への好解釈ですね。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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