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『天空の蜂』 | |||||
監督 堤幸彦 | |||||
観始めて早々に「そーか、“ビッグB”だから巨大な蜂になるわけか」と「刺す」とのアナロジーに感心した。四年半前の東日本大震災による福島原発事故に遡ること十五年余の1995年に、高速増殖炉“もんじゅ”が発電開始早々にナトリウム漏洩事故を起こして運転停止になった頃に刊行された小説を原作としながら、東日本大震災を踏まえた作りになっていて、大いに観応えがあった。犯人、畢生のデモンストレーション・メールがすんでのところで封印されたように、原子力の“平和利用”なるものへの疑念と警句は絶えず繰り返されながらも、決して大きな動きに繋がらないよう封じられてきたことの延長に今があるという時代認識を示しているのだろう。 安保法制がらみで自衛隊への関心が高まっている昨今という時宜にも適っていて、救助隊としての自衛隊の技術力の高さと職務遂行力に対する信頼感が立ち上ってくるような作品だった。改めて彼らの本旨はそこにある気がしてならなかった。いや、自衛隊だけではない。警察官にしても、消防団員にしても、技術者にしても、現場で身体を張った仕事をしている人々の姿は、やはり美しい。 また、ちょうど久しぶりに伊丹万作の遺した『戦争責任者の問題』を読み直したところだったので、奇しくも重なってくるようなものを感じて感慨深かった。伊丹が「日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていた…このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかること…少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか…」と指摘していた無知無自覚の罪は、原子力発電問題にも通じており、本作において錦重工業の大型ヘリ開発技術者の湯原一彰(江口洋介)に対して、同社の原子力技術者であり旧知の三島幸一(本木雅弘)がまさに訴えていたことだったように思う。そして、三島の負ったトラウマに、三か月前に読んだばかりの『「僕のお父さんは東電の社員です」』(毎日小学生新聞★編+森達也★著 現代書館)のことも思い出した。 また、先ごろ観たばかりの『ピース・オブ・ケイク』で梅宮志乃(多部未華子)が零していたのと全く同じ「どうして私なの?」という言葉を漏らしていた赤嶺淳子(仲間由紀恵)の映画では割愛されていた過去に何があり、心に深い傷を負った三島幸一との出会いは何だったのか、そして、何よりも、雑賀というか佐竹(綾野剛)という男が如何にして、自衛隊と錦重工業を渡り歩いたかを、原作小説がどう描いているのか読んでみたくなった。予感的には複数の人物を映画化に際して一人にしているような気がする。また、雑賀のアパートに踏み込むべくドアをノックし声を掛けていて爆死したと思われる航空自衛隊員は、原作では女性ではないような気がしている。 それにしても、航空自衛隊救難員の上条2等空曹(永瀬匡)がなかなか良かった。しかし、安保法制の施行により自衛隊が救助隊よりも軍隊色を強めるように運用を変えてくるようになると、本作の湯原高彦(田口翔大[成人 - 向井理])隊員のような入隊者が減ってきてしまうような気がしてならなかった。 高知では早くも昼夕2回の上映になっているのが勿体ない。東宝の作品ではないから冷遇されがちなのだろうか。 参照テクスト:『「僕のお父さんは東電の社員です」』読書感想文 参照テクスト:SNS・掲示板での作品談義の編集採録 推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-d9b2.html | |||||
by ヤマ '15. 9.27. TOHOシネマズ5 | |||||
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