『「僕のお父さんは東電の社員です」』を読んで
毎日小学生新聞★編+森達也★著<現代書館 単行本>


 森達也の著した部分は、全221頁中84頁しかないのに、「毎日小学生新聞★編+」の3倍の文字サイズで「森達也★著」となっていることに多少割り切れぬ思いで読み始めたのだが、彼の綴った僕たちのあやまちを知った あなたたちへのお願いは、全体の3分の1強でも、著作と表記するに足るどころか、本書の刊行された2011年11月30日以前以後において僕が目にした原発問題に関して綴られた数々の文章のなかでも、突出した納得感をもたらしてくれる平明さと説得力に富んだ素晴らしい文章だった。

 本著の標題となっている一節は、2011年 3月27日の毎日小学生新聞の1面に掲載された東電は人々のことを考えているかと題された、元毎日新聞記者・論説委員で経済ジャーナリストの北村龍行によるコラムに対して、小学6年生の読者が程なくして編集部に送った手紙の書き出しの部分だ。毎小でこの手紙を紹介するとともに全国の子どもたちに意見募集をしたのは、原発事故への対応状況を注視するなかで一定の判断をした 5月18日だったようだが、子どものみならず大人や教員から手紙やはがきが届いたなかから編んだものとのことだ。

 そのなかで特に目を惹いたのがおとなからの手紙のなかで、1999年 9月30日の東海村JCO臨界事故に言及し当時私は立場上、その対策に追われましたと記していた沼田 新さんの今、世の中は何か起こると、すぐに「誰の責任」と言います。でも、責任は自分にあるのです。国民が今のように電気を必要としなかったら、こんなに原発を造らなかったでしょうし、逆に電力不足が起きたら、東電はその責任を問われたことでしょう。(P128~P129)との問い掛けで、奇しくも森達也の記述がその部分への見事な回答にもなっていることに感心した。

 子どもたちに向けた文章として電気って何だろう(P134)ということから説き起こし、電気と原子力(P144)について解説したうえでたぶん僕たちは電気に馴らされすぎてしまったのだろう。百年とちょっとの期間は、人類の歴史からすればあっというまだけど、いま実際にこの時代にいる僕たちにとっては、とても長い期間だ。今さら元には戻れない。(P149)ことを前提に記しているのだが、福島第一原発事故から三ヵ月が過ぎた六月、チェルノブイリ事故以降に国内六基の原発をすべて廃炉にしていたイタリアで、原発を再開するかどうかの国民投票が実施されて、九四%以上が再開に反対した。 さらに七月、ドイツは国内七基の原発すべてを停止することを決めた脱原発法を、議会で成立させた。スイスも五基の原発すべてを二〇三四年までに廃炉にすることを宣言し、ブラジルは国内四基の原発建設計画を白紙にすることを決定し、原発を保持していないオーストリアは、二〇一五年までに輸入電力も脱原発するという目標を提示した。(P151)ことを紹介しつつ、日本で原発が増えたわけ(P155)を述べていた。

 ビキニ環礁で多くの漁船が被曝した日本いわば、原爆と水爆双方の被害を知る、世界で唯一の国だ。 …でも戦後に、アメリカの圧力に押し切られる形で、原子力発電の技術が日本に輸入された。……押し切られる形で、と今、僕は書いたけれど、これをむしろ歓迎する政治家もいたし、企業があったことも確かだ。 このときに多くの人たちを納得させるために使われたのは、「原子力の平和利用」というフレーズ(言葉)だった。原爆がもたらした凄惨な被害を覚えている人たちの多くは、原子力をエネルギーに変えるなどとんでもないと最初は抵抗を示していたけれど、でも何度も「平和利用」と言われるうちに、何となくそんな気分になってきた。そして「平和利用」だけではなく、経済的な発達や先進国のシンボルのような意味も、原子力は持ち始めていた。 …間違っているけれど、ほとんどの人は「ちょっと待って」と言わなかった。何となく雰囲気に流されてしまっていた。 こうして一九五〇年代の高度成長期に、「原発は絶対に安全である」とする原発神話が、政府やメディアによって形成された。(P156~P158)と歴史を述べていたが、奇しくも過日、『裏切りの夏』(虹影 著)の読書感想文に本質を言葉遣いによってすり替えようとする“権力側の常套手段”に対する人の普遍的な弱さを指摘していて、昨今の我が国の状況とも相俟って目を惹いたと綴ったことを想起した。

 そして、重要なこととして今になって思えば、「絶対に安全である」だなんて絶対におかしい。…でも原発神話は、多くの人が信じ込んだ。ファンタジーがリアルになってしまった。 そこにはもちろん、政府やメディアによるプロパガンダ(宣伝や刷り込み)が、大きな要素として働いている。 この時代に誕生した鉄腕アトムは、体内に埋め込まれた超小型原子炉が動力源という設定になっている。(子ども時代の僕のヒーローだった)8マンやサイボーグ009も、そしてあなたがよく知っているドラえもんも、やっぱり小型原子炉が体内に内蔵されている。 こうしてこの国の人たちが持っていた原子力への抵抗感は、少しづつ薄くなっていった。もしも間違った情報でも誰かが信じれば、その情報はその人を経由して、さらに多くの人に伝わる。その多くの人はまた情報を発信しながら、さらに多くの人たちに影響を与える。 つまり「臨界」と同じような現象だ。(P158~P159)と述べたうえで、一人なら「ありえないよ、そんなこと」と言っていたはずなのに、絶対にやらなかったはずなのに、多くの人が同じようなことを言ったりやったりしていると、人はどうしてもその集団の動きに従ってしまう。少し難しい言葉だけど、これを「同調圧力」という。覚えてほしい。特にこの国における原発の問題を考えるとき、この言葉はとても重要な意味を持つ。(P160)と訴えていた。

 とても大切な視座はこうした「目先の得」のことを「利権」という。 特に電力事業は、こうした利権の典型だ。なぜなら国家事業と結びついているから、大義名分をつくりやすい。多くのお金が動く。こうして民間企業も役所も住民も一緒になって、自分たちの利益を増やすことに夢中になってしまった。 何てあさましいと、あなたは思うかもしれない。僕もそう思う。でも現実でもある。人は理屈だけでは生きられない。ほとんどの仕事は、多かれ少なかれ、この利権と切り離せない。特に原発は、この利権が、あまりにも巨大になりすぎた。目的を達成するための利権だったはずなのに、利権そのものがいつのまにか目的になってしまっていた。(P163)と述べている部分だと思う。

 結論は、平明で明快だ。よくわからないが深刻な害があることだけは確かなものを、電気という生活に密着したエネルギーをつくることに使うべきではなかったのだ。(P168)というもので、僕も同感だ。だから僕たち大人は、まずはあなたたち子どもに謝らなくてはならない。本当にごめんなさい。(P168)というものが文題に繋がっているのだろう。

 その深刻な害について、劣化ウラン弾を例に引き、細かな確率や因果関係に不明な点があるにしても、被害があることは間違いない。実際に現地では、多くの子どもたちが死んでいる。ならば使用はやめるべきだ。とても当たり前のこと。(P176)と述べ、ミルグラム実験について詳細に語っているところが、重要かつ強烈だった。

 ミルグラム実験で明らかになったことは、多くの人は特殊で閉鎖的な環境に置かれたとき、たとえそれが自分の良心に背くような内容であったとしても、権威者やその場のリーダーの指示や命令に従ってしまうということだ。(P188)として、ホロコーストに言及し、その実験の続きとして、2010年にフランスのテレビ局が行った実験を紹介していたが、何と八〇%の人たちが、相手が死ぬかもしれないと何となく思いながらも、最高値の四五〇ボルトまでスイッチから手を離そうとはしなかった。 この実験の様子は、ドキュメンタリーとしてフランスの公共放送局で放送され、大きな話題になった。テレビという装置を使えば、ミルグラム実験よりもっと多くの人たちが、残虐な行為をやれることが明らかになったからだ。(P189)と述べている。

 そして、マンモスの牙を例に進化の方向が、一方向に固定されて止まらなくなってしまう…過剰(定向)進化(P195)に言及し利便性や快適さを求める人の進化も、もしかしたら過剰進化の例かもしれない…。いつからか止まらなくなっていた。前へ前へと進むばかりだ。でもその方向が本当に「前」なのかどうか、実は誰にもわからない。集団で動くとき、方向を気にする人は誰もいなくなる。(P196~P197)としたうえで、責任とは、罰を受けることだけではない。なかったことにすることでもない。そんなことは不可能だ。 本当の責任とは、同じ過ちを繰り返さないようにすること。原因や理由を必死に考えること。そして原因や理由がわかったら、これを修正しようと声をあげること。 原発問題だけでない。同じような問題はきっと他にもあるはずだ。 もしも「何か変だな」とか「大丈夫だろうか」と思ったら、リーダーや多くの人の意見とは違っても、「何か変だよ」と発言すること。いきなりは難しいかもしれないけれど、少しずつでもいいから声をあげること。(P214~P215)と述べていた。少なからず感銘を受けた。

by ヤマ

'15. 6.16. 現代書館 単行本



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