『悪童日記』(Le Grand Cahier)
監督 ヤーノシュ・サース


 浅薄な共感を確信的に拒んだ作品のインパクトにたじろぎつつも、そこかしこに溢れ出る悪意と酷薄に、いささか萎え、決して苦手ではないつもりの“映画との対話”に難儀した。それにしても、本作がアカデミー外国語映画賞受賞(追記:受賞ではなく、ハンガリー代表とのこと)とは驚いた。作品賞のバードマン あるいはといい、アカデミー賞も宗旨替えしたのだろうか。

 それはともかく、先ごろ読んだばかりの手塚治虫のねがったこと』(斎藤次郎 著<岩波ジュニア新書>『アドルフに告ぐ』のカウフマンがアラブ人の妻からユダヤ人を殺す“正義”を徹底的に教えこむ教育がパレスチナにも必要だと言われ、同意できないものの口に出して反論できないまま考えた言葉が引用されていた箇所(P172)の小見出しが子どもに殺しを教えるなだったことを思い出した。

 引用されていたカウフマンの言葉はおれはあの日から(幼なじみのユダヤ人カミルの父を射殺してから)、何千人のユダヤ人を殺したかな……だが、子どもの頃の恐ろしさは忘れられん。 いまのおれには、ユダヤがなにをしようと、アラブがどうしようと関係ないことだが、子どもに殺しを教えることだけはごめんだ。世界中の子どもが、正義だといって殺しを教えられたら、いつか世界中の人類は全滅するだろうな。というものだった。

 本作の双子の兄弟(アンドラーシュ&ラースロー・ジューマント)は、アドルフ・カウフマンのように忠実度訓練のためにユダヤ人の射殺を命じられたP170)わけではないが、過酷な日々を耐え抜く強靭さを身に付けるための鍛錬として様々な苦痛を自らに課すなかで、恐ろしいまでの境地に到達していたように思う。

 非常にシンボリックな描き方をエピソードにもキャラクターにも加えているために、その意図を読み取ることを強迫される感じがあって、歳のせいか少々閉口したのだが、圧倒的な力作であることは疑いようもない。個々の暗示的部分をどう解したかはともかく、全体として印象深かったのは、男たちの怖さが押しなべて単純な“粗暴”であることに比して、不気味な恐さを秘めたり露わにしていたのが悉く女性であったことだ。

 魔女と呼ばれた祖母(ピロシュカ・モルナール)と母親の間の悪感情は相当なものだったし、後には姉と慕った隣家の兎口の少女にしても、双子の少年の世話を焼き混浴に誘い入れていた白肌の女性が露わにしていたユダヤ人への侮蔑と敵意にしても、女性たちの見せる怖さには底の知れなさが宿っていたような気がする。原作者の女性観なのか、映画の作り手のものなのか、おそらくは両者共のものなのだろう。




参照テクスト:『手塚治虫がねがったこと』読書感想
by ヤマ

'15. 4.24. 美術館ホール



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