『めぐり逢わせのお弁当』(The Lunchbox)
監督 リテーシュ・バトラ


 自分がその年頃にあるせいか、サージャン(イルファン・カーン)の零した“晩年の香り”との呟きが心に留まった。それに気後れがして姿を現せないという男の小心さは、成程わからなくもない。相手が想像以上に、まだまだ若く美しい30代女性だったから、尚更なのだろう。だが、結婚歴もあり、早期退職とはいえ勤続35年のキャリアを持つ社会人が、一方的に何時間も待たせたまま観察するなどというのは、妙に合点がいかなかった。

 また、決して袖にされたわけではなく、何時間も待ったその時間を共にしていたことを、姿を現せなかった気後れとともに伝えられたからといって、やにわに小金を用意して娘の登校を見送ったまま置いてきぼりにしてブータンへの旅行を敢行してしまう母親にはイラ(ニムラト・カウル)が見えなくて、妙に合点がいかなかった。

 だが、あの編集ならば、最後にサージャンが乗っていた列車はブータン行きのものと観るのが順当だろうし、イラがサージャンの郷里の郵便配達人に頼んで届けるか、自分の手元で読み返すかと呟いていた手紙の決意は、ブータン行きに他ならないと観るのが順当だろうと思う。

 それは、あり得なくはない展開だけれども、やはり唐突感が拭えない感じがする。もっとも、本当にハーバード大学から研究チームが来て完璧とのお墨付けを与えたとは思えない実に大雑把な気のする弁当配達システムが600万分の1の確率でしか誤配を起こさないことよりは、遥かに現実性があるような気はした。

 明らかに過剰なまでの人員による交代引継ぎを加えて、払える労働対価には決して高い水準が期待できない類の配達システムが本当にあのような形で存在しているとすれば、やはりインドというのは並々ならぬ奇跡の国だ。それからすれば、イラとサージャンのめぐり逢わせに少々の奇跡が起ころうとも、あの弁当配達システムの奇跡には及ばないような気はする。

 だから僕には、そんなイラとサージャンのめぐり逢わせよりも、指定した16:45には後任者がオフィスにきちんと来ていることを目視しながら、自分の元に来ていないことを以て当てつけるように早退していたサージャンが、彼のミスを自分のミスだと庇ってその失職を防ぐまでになった後任者の、お調子者を板に付けていた孤児育ちのシャイク(ナワーズッディーン・シッディーキー)との巡り合いのほうが印象深かった。

 作劇的には、シャイクとの関わりをそのように変質させたものこそが、まさしくイラとのめぐり逢わせによってサージャンが得た“取り戻した生命感”ということなのだろうが、上司が前職だと言っていたサウジでの主任会計員という職歴が眉唾物に思えるような“重要書類の上で直に野菜を切る下拵え”をしていたシャイクのオープン・マインドな人物造形と境遇が効いていたように思う。

 ともあれ、幾つになっても、人生には新たな出逢いと始まりがあるのだという作品を観るのは、近ごろ“晩年の香り”を自覚することの多い僕にとって、心地よくまた心強いものではあった。





推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=3700229&id=1933191425
推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1931320359&owner_id=1095496
by ヤマ

'15. 4.19. あたご劇場



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