『オロ』(Olo)
監督 岩佐寿弥


 昨年5月に急逝した岩佐監督の遺作を、高知に住む息子さんが自主上映したいとのことで、予め試写を垣間見ていた作品だ。そのときには、チベットの難民問題を主題にしているなら踏み込み不足な感じが否めず、また、チラシに記載された「6歳のときにヒマラヤを越えて、チベットから亡命した少年の物語。」として少年そのものを追ったとするには、パーソナルな視線以上に政治的問題意識が前面に出てきているようで、どっちつかずの物足りなさが残るように感じていた。だが、本日の“おまけ上映”として添えられていた、岩佐監督追悼DVDの再編集版『遊びをせんとや生まれけむ』(40分)が大いに参考になった。

 昭和一桁(1934年)生まれの岩佐監督のプロフィールを綴った作品だったのだが、岩波映画時代の「青の会」の同志であり先輩である黒木和雄監督や土本典昭監督との鼎談を交え、岩佐監督本人が言うところの「政治に対しては普通以上にセンシティヴなほうだと思っている」からこそ「東に三里塚あらば、西には水俣」という時代に、まさにその場に勇躍乗り込むことに対しては、違和感のほうが先立ったというような回顧の弁があった。生真面目に“シネマ・ヴェリテ”を求める映画作家としての誠実さを窺わせていて、非常に印象深かった。

 これを観たことにより、『オロ』に感じた物足りなさの色合いが少々異なって見えてきたのだったが、それでもなお、本作における岩佐監督としてのシネマ・ヴェリテが何だったのかが今一つピンとこず、本作にも登場する“モゥモ チェンガ(満月ばあちゃん)”を撮った2002年作品『モゥモ チェンガ 満月ばあちゃん チベット望郷の物語を観れば、さらに少し違ってきそうな気がしたのだった。

 ただ、試写で垣間見たときとはまるで印象の違う画面の美しさには瞠目し、これならば2012年度日本撮影監督協会賞を受賞したのも納得の映像だと思った。そして、試写を観たときと同様に、オロの少々過剰なまでの明るさをどう捉えるべきか逡巡させられるようなところがあった。カメラと岩佐監督の姿のないときのオロは映りようがないわけだが、日常的に接することは叶わないでいる県外在住の孫と僕が時々会うときの孫のはしゃぎ様に通じるような部分がないはずはないという気がした。そのくらいの親和性がオロと岩佐監督の間に築かれていることがありありと伝わってき、もしかすると、それこそが岩佐監督にとっての“シネマ・ヴェリテ”だったのかもしれないなどと思った。

 本作のプロデューサーであり編集者である代島治彦による『遊びをせんとや生まれけむ』では、もう一つ、岩佐監督が脚本参加をしていた黒木監督のとべない沈黙['66]についての独白部分が非常に興味深かった。加賀まりこと蜷川幸雄に「いまの自分を抜け出す」といった会話をさせていたことなどに対して、あの時代らしい観念性の先行した言葉だったといくぶん気恥ずかしげに、反省の弁として語っていたように思う。

 その『とべない沈黙』は、黒木作品のなかでも僕のお気に入りの映画の一つで、2000年になってから初めて観た際に、'96年刊行の拙著高知の自主上映から-「映画と話す」回路を求めて-の帯書きに推薦の弁「四国は高知にあってひたむきに映画を愛する人から発信されたシネマ祈祷書といえる。芸術としての映画、娯楽としての映画の豊穣の森に踏みこみ、映画の一樹一樹と親しく敬虔に対話することで、著者はつくり手とうけ手との回路を生々と再生[ルネサンス]したいと願う。二十年にわたる自主上映の困難で貴重な体験を検証するこの人ならではの真摯な語りくちは、映画の回路としての地方の現場を共有したい熱い思いに私たちを駆きたててくれる。」を寄せてくださった黒木監督に拙日誌をお届けしたことがある。そしたら、非常に丁寧な返信とともに「友人たちが作ってくれた『映画作家 黒木和雄の全貌』(97年 アテネフランセ、フィルムアート社)はお読みいただいているでしょうか」との問い掛けをいただき、未読だと返すと、即刻ご恵与いただいた経緯があったので、ことさらに興味深かった。当時はむろん岩佐監督の脚本参加を意識することなどないままに観たのだが、青の会について触れた『遊びをせんとや生まれけむ』を観たうえでの再見をしてみたいものだと思った。
by ヤマ

'14. 3. 2. 自由民権記念館・民権ホール



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