『君と歩く世界』(De Rouille Et D'os)
監督 ジャック・オーディアール


 五十年余り生きてきたスパンで考えると、さしたる不運に見舞われたことのないように思える僕からすれば、障害の残る事故に遭ったり、自分の関わったことが肉親の失業に繋がったり、子供を瀕死の目に合わせる事態になるというような、何とも人生の巡り会わせが悪そうな人たちの逞しい再生を目の当たりにするのは、少々居たたまれないような気のしてくるところがあって、素直に感動できなかったりするのだが、体の不自由がもたらした心の不自由を解きほぐすのは、やはり体の解放なのだということについて、強い説得力を感じた。

 不慮の事故で両足を失くしたステファニー(マリオン・コティヤール)に対して、最強のふたりのドリス(オマール・シー)以上の無頓着さで向かうアリ(マティアス・スーナールツ)の余りの屈託のなさには少々唖然としたが、劇薬なればこその良薬だったのかもしれない。上っ面な気遣いを見せられることで却って喪失感を抉られ、憤激するステファニーの姿に大いに納得感があるとともに、アリの鈍感力ゆえに導かれ得たとも言える泳ぎやセックスによって心身が解放される様子を見事に演じたマリオン・コティヤールが天晴れだった。彼女の出演した映画を何作も観ているはずなのに、あれほど胸が大きかったことには気づいておらず、いささか驚いた。

 それにしても、やはりフランス映画だ。さすが革命の国だけあって、雇用者と被用者というのは基本的に対立関係にあることが大前提の社会意識というものが、隅々にまで行き渡っていることが窺えて、印象深かった。少なくとも、面識すらないエスタブリッシュメントを、親しげに“さん付け”で呼ぶようなメンタリティを持った労働者はフランスにはいないような気がする。

 アリの姉アナ(コリンヌ・マシエロ)は、弟がたとえ犯罪者になっても庇護するのだろうが、経営者の手先になることだけは、邪気がなくとも決して許せないということなのだろう。仮に彼女自身が失職していなかったとしても、労働者仲間にアリの関与が知られていた以上、家にはもう置いておけないということになったような気がする。銃まで持ち出されて追い出されていたところが凄い。

 あらゆることに対して、とことん無自覚、無頓着なアリだったが、姉の家を追い出された顛末は流石に堪えたようで、新たな生きる道に本気で踏み出すようになっていた。そして、「“獣じゃない”生き方への“対応可能”」から、愛へと踏み出すようになったのだろう。「やはり人の成長には、喪失の危機への直面が必要なのかなぁ。」などと、さしたる不運に見舞われたことのない僕は、少々狼狽させられてしまった。

 骨折によって痛めた箇所は、周囲がカルシウムで補強され、ときとして以前よりも強くなるが、それは決して元の姿に戻る事ではなく、痛めた弱みを内在させているといった旨のナレーションで締め括っていたのは、アリが表のボクシング界に復帰しても、もはや闇ボクシングの世界で稼いでいたときと同じようにはいかない一抹の危うさを示そうとしているからだという気がした。ただ同時に、それについては是非もないことであって、人の生の時間が逆向きに戻るものではないことと同義のように提示しているとも感じた。リライアブルな見識だと思う。

 そして大いに感心したのが、このことをボクシングに関する拳の話だけではなく、ステファニーとアリの関係そのものについても敷衍しているように感じられたところで、なかなかのシビアさだと思った。もう“劇薬なればこその良薬”のような関係に戻ることはないわけだ。それゆえの強さと脆さを絆として固めた表の関係というのは、そういうものだという気がする。



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by ヤマ

'14. 2.27. 美術館ホール



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