『とべない沈黙』
監督 黒木 和雄


 三十五年も前の日本映画に堂々たるロードムービーがあって、しかもそれが虫のロードムービーであることに驚いた。この着想は、作り手が当時激変しつつあった日本の姿を前にして、時代の証言者としての日本各地の声なき光景をフィルムに焼き付けておきたかったから生まれたのだろう。

 チラシには1966年製作と記されていたが、映画のなかに被爆後十九年という言葉があったから、1964年から製作されていたのだと思う。50年代半ばに「もはや戦後ではない」と高らかに宣言して、声なき声を圧殺しつつ日米安保&高度経済成長政策を突き進めていた日本にあって、名もなき人々が暮らしている街並みと人の営みをあちこちで目撃していくナガサキアゲハの幼虫の旅を軸に展開していく映画が製作された作品的意義は大きい。ドキュメンタリー作家を出発点とした作り手らしい骨の太い問題意識が実に想像力をかきたてる映像構成と象徴性によって綴られていて、今なおたいへん刺激的だった。製作当時に前衛を装いつつも時間の経過のなかで精彩さを欠き、陳腐になっていくというやつれ方をしていく作品群とは一線を画していて、実に立派なものだ。それは一にかかって、映画というものが同時代性を旨とする表現であることを作り手が深く認識していたからだと思う。前衛的な表現であるがための前衛作品を撮るのではなく、時代に向ける確かな眼差しを映画のなかに宿らせることに成功しているから、古びてこないのだ。

 いるはずのない北海道にナガサキアゲハを登場させたあと、本来の生息地である長崎から萩、広島ときて、次第に北上していくのかと思ったら、京都から大阪に逆戻りしただけでなく、香港まで飛んでしまうという形で意表を突いて横浜に上陸し、最後はきちんと北海道に到った。汽車、飛行機、船、車と一応すべての乗り物が登場し、ロードムービーとしても形を整えている。残念ながら戦車にまでは乗り込めなかったが、撮影の事情さえ許せば、きっとナガサキアゲハの幼虫を乗せていたはずだと思った。なかでも鉄道線路のうえを幼虫がゆっくりとたゆまず這っていく映像には、とりわけ印象深いものがあった。

 光景として強く残っているのは、長崎では被爆の街を示すレリーフと駅の雑踏、萩では剥がれかけの土塀。広島では立派な球場のそばに林立していたバラックと思い掛けなく見事な肢体の踊り子がいたストリップ小屋、そして平和公園での祈念祭。京都が戦没兵士の墓石の居並ぶ墓地と寺院の柱で、大阪は特飲街の名残りのようないかにも猥雑な飲み屋街と当時にしては洒落た外装のラブホテルの前に残るバラック。そして、東京の街では連なって縦走する戦車団。

 それらの光景は、まるで冒頭のサナギからの羽化と同じように女の肌を接写するがごとく、すでに十年前に「もはや戦後ではない」と謳いあげた日本を接写すると、まざまざと浮かび上がってくるものだと言っているかのようだった。加えて、広島では被爆後十九年を数えなお不安に脅える被爆者の生の声が挿入され、京都では、南方戦線での残虐行為の記憶を拭えない中年男(小松方正)の独白があり、大阪では雑踏や酒場で拾ったような庶民の会話が挿入される。それら沈黙の淵に追いやられていたかのような人々の声や光景が立ち現れてくるのがこの作品なのだ。

 それでは、この映画のタイトルであり、横浜の怪しい歌手(坂本スミ子)の歌う歌詞にも出てくる“とべない沈黙”とは何を暗示しているのだろうか。「とぶ」は、当然のこととしてアゲハに繋がっている。ナガサキアゲハは、香港の挿話で説明されたように学名にシーボルトの名を持つ外来種だ。そのうえで、ホテルでの二人の男(千田是也、東野英治郎)の会話のなかに「蝶になってしまったら台無しだ」というような言葉を「また戦争でも始められるんなら別だが」といった言葉と併せて聞くと、作り手はナガサキアゲハを戦後入ってきた外来の“民主主義”に見立てていたのだなと思う。そして、外来種でありながらうまく帰化したとされる蝶の幼虫が、映画のなかでは結局のところ東京で死んでしまったり、北海道での飛んでいる姿がいるはずもないものであったり、少年の手のなかで死んでしまう形でしか登場しないところに、作り手の哀惜の思いが投影されているように感じた。

 更に、東京から女を追ってきた男(蜷川幸雄)の広島での言葉や大阪でオフ音声で繰り返された「曲がり角のない人生などつまらない」という中年女の呟きなどには、変わっていかなければならないことを訴えかける作り手の思いが窺える。“民主主義”の幼虫の羽化を望み、沈黙の淵におかれている庶民の言葉や生活が“とべない沈黙”から抜け出すことを願いつつも、果たされない現実を前に嘆息しているように感じられた。

 また、土地土地において姿を変えて登場する加賀まりこの若々しくも妖しい気配を漂わせる希有な存在感が、その表情とともに非常に魅力的で次にはどういうイメージで出てくるのか楽しみにしながら観ていた。大阪では結局本人が登場せず、売買春の不毛の性交に暑苦しい汗を浮かべるサラリーマン(渡辺文雄)の佇む街路壁に大きく描かれた肖像しか出てこなかったが、クローズアップされた唇が鮮烈だった。

 そして、石原都知事が一見時代錯誤とも思える極右発言を意図的に発した直後だけに東京の街を縦走する戦車の姿は、とりわけ強烈だった。




参照テクスト:黒木監督との往復書簡
by ヤマ

'00. 4.22. 平和資料館・草の家



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