『凶悪』
監督 白石和彌


 冒頭、実話に基づくフィクションとクレジットされたどの部分が実話で、どの部分がフィクションなのか気になるくらい、最後の量刑が納得できなかった。一連の営利殺人事件の首謀者ながら、殺した人数では須藤より遥かに少ない木村“先生”(リリー・フランキー)が無期懲役で、最高裁まで行った須藤(ピエール瀧)は、殺人者数が増えたにもかかわらず、死刑から懲役20年に減刑された形になっていて、そんな馬鹿なという気がしたが、脚本を書いた高橋泉は、もしかすると死刑廃止論者なのかもしれないと思った。

 妻の洋子(池脇千鶴)に向かって、「黒幕の木村を追い詰め死刑に送り込むことこそが被害者の魂を救うことなんだ!」と絶叫する藤井記者(山田孝之)の言葉が、非常に皮肉っぽく反語的に聞こえる運びになっていたことや、木村自身から「俺よりも須藤よりも、いちばん人を殺したがっているのは、(お前だろ)」と、スクリーン越しに観客たちを指さしてくるかのように面会室の藤井に迫るラストシーンを設えていたことから、そんなふうに感じたのだ。

 おそらくは、『新潮45』編集部編の原作には、応報刑的な死刑制度の運用強化を求めるニュアンスが強いのではないかと未読のまま察しているのだが、藤井の妻への弁の設け方やラストシーンは了解しても、須藤の量刑を減じてしまうのは、死刑制度廃止論者の側に立つ僕から観ても、脚色の仕方として間違っているような気がしてならなかった。これでは逆効果になりかねないし、死刑制度廃止論者ではなく、むしろ量刑強化を求めるからこそ、このようにしているのなら不誠実極まりないことになる。

 また、今は審理速度が上がっていて6年くらいで最高裁まで行くのかしらと、須藤の情婦の娘が小学生から高校生になっている様子を見て思った。小学生の女の子のいる部屋の隣で昼間からセックスに耽っていたのが日野(斉藤悠)たちを殺し、逮捕される時点のどれほど前なのかは判らないから、短ければ2~3年で最高裁まで行っていることになる。

 映画のなかの『明潮24』サイドの判断基準が徹頭徹尾、ネタになるか否かで些かの揺るぎもなく貫かれていた点には、実にリアリティがあって納得感が持てたけれども、本作がキネ旬上位に選出されたのは、一体どうしてなのだろうと訝しく思った。藤井や『明潮24』サイドをヒロイックに描いてなかったからだろうか。それとも、単純に演技陣の凄みのある充実ぶりに対してなのだろうか。

 それにしても、女ともども焼き殺されたらしい日野にしてもムショ仲間の賢ちゃん(米村亮太朗)にしても、裏切りとまでも言えないような些細なメンツ潰しのせいで陰惨極まりない殺され方をしていたわけだが、須藤の殺意にしろ木村告発にしろ、また、須藤に利用されていたと気づかされた藤井の激昂にしろ、男たちが拘っているのは、結局のところ、金以上にメンツだったような気がする。そのために必要としているとも言うべき“口実”の、何とみすぼらしいことか。何とも情けなく感じられた。

 映画を観始めたときには、どうして須藤が警察や検察などの司直に告発せずに、メディアを利用しようとしたのか、また、社内でも上司から牽制されていたなか、藤井記者がどうして取材に入れ込んでいったのか腑に落ちない気がしていたのだが、観ているうちに納得感が得られるようになっていた気がする。

 エンドクレジットを観ていたら、高知出身の廣末哲万の名が出てきていたので確認すると、電気屋の息子だった。おどおどしていた彼の顔は、そう言えば、確かに廣末だったような気がする。彼の監督作14歳は、非常に力のある作品だったが、もう撮らないのだろうか。『14歳』の当地での上映会には、帰省も兼ねて登壇していたが、前夜の懇親会で伺った好みの監督がミヒャエル・ハネケだったことに非常に納得感のある作り手だけに、その後の監督作品がないのが残念だ。




推薦テクスト:「田舎者の映画的生活」より
http://blog.goo.ne.jp/rainbow2408/e/d1b13425b6dc3cc650e867978e91270a
by ヤマ

'14. 2.16. あたご劇場



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