『人斬り』['69]
監督 五社英雄

 近ごろ映画を自宅で観賞することも厭わなくなった僕にとっての“クラシック案内人”とも言うべき先輩から託された一本だ。司馬遼太郎の未読の原作『人斬り以蔵』は短編らしいから、脚本の橋本忍が書き加えている部分が相当あるのだろうが、僕の目を最も惹いた、馴染みの遊女おみの(倍賞美津子)から「明日、武市さんとこに行って謝るしかないんだよ」と諭されながら、彼女に掻きついておいおい声をあげて泣いている以蔵(勝新太郎)の場面は、原作にはなく脚本家によるものだった気がしてならない。自分を師と仰ぐ以蔵を平然と犬呼ばわりする酷薄な武市半平太を仲代達矢が巧みに演じていて、大いに気持ちを逆撫でされた。

 勝新太郎が、岡田以蔵の愚直で人間的な野性味にピタリと嵌っていて、後年の五社監督の濃厚で執拗な色物映画の作品群のイメージを払拭されるような快作だったと思う。後の五社英雄なら、おみのと以蔵の絡みのシーンをもっと熱っぽく撮ったに違いないのだが、露出を控えた演出のほうが、却って力があるような気がして感心した。

 人斬りの何たるかを学んで来いと武市に命じられて以蔵が盗み見た序盤での吉田東洋(辰巳柳太郎)暗殺場面からして圧巻だった。ありがちな立ち回り演出とは一味もふた味も違う、緊迫感のある人斬りの生々しさを描出していた。相手の受け止めた太刀越しに腕力で押し込んで首の後ろを切り込む図というのは、初めて観たように思う。それがリアルかどうかには少し疑問があるが、生々しい迫力に満ちていたのは間違いない。結局はその深手による失血死のように描かれていた東洋が、石垣に凭れながらへたり込み項垂れる最期の姿に、瞠目した。このとき以蔵は、人斬りの前には「天誅!」と叫ぶのが作法だと思い込むのだが、後年の場面で同じ太刀遣いによる殺しを構えてあったのが効いていたように思う。

 また、人斬り新兵衛を演じていた三島由紀夫がからっ風野郎['60]のときとは段違いの堂々たる演技を見せていて、驚いた。姉小路公知(仲谷昇)暗殺の場に己が太刀を残されていたことを咎められた不覚を恥じ、新兵衛が即座にその太刀で腹を刺して自死した場面の運びの間合いが鮮やかで、大いに感心させられた。件の先輩によれば、これが割腹自殺を実際に果たした三島の自決場面であることから、なかなかDVD化がされずに来ているのだそうだ。

 石原裕次郎の坂本竜馬というのは、前に何かで観たことがあるような気がするのだが、何だったか思い出せない。幕末太陽傳['57]での高杉晋作もそうだったように思うが、裕次郎に時代劇はどうにもそぐわない気がする。『幕末太陽傳』は、作品のテイスト自体が脱時代劇を指向していたように思うからまだしも、本作では牢名主とその片棒に扮していたコント55号に並ぶミスキャストだという気がした。竜馬は以蔵にとって武市と対照的な人物として、非常に重要な位置を占めていただけに惜しまれるが、人懐っこい天性の明るさということでのキャスティングだったことが理解できるようには感じた。

 映像的には、けっこうローポジションのカメラが目立っていたように思うけれども、この時分、流行っていたということだろうか。また、画面いっぱいの屋根瓦をバックに一人以蔵が歩いている場面の孤独と寂寥が印象深く、狭い路地で本間精一郎(伊吹総太朗)を仕留めた場面の殺陣に迫力があり、本間とともに下方から斜めに斬り上げられた障子戸が鮮やかだった。

 それにしても、有頂天と奈落の間を往還していた以蔵の末期の鮮やかさは、どうだ。武市と決別し、一矢報いることと合わせて、おみのを苦界から救う手立てを講じるなんぞ、決して“犬”に真似のできる所業ではない。竜馬とともに新兵衛の郷里である薩摩に逃れる選択を敢えて選ばなかった以蔵の気概を哀れと観るか、愚かと観るかも含め、さまざまな見解があろうが、僕は、潔き自立と訣別の証だと観てやりたい気がした。


推薦テクスト:「お楽しみは映画 から」より
http://takatonbinosu.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_da61.html
by ヤマ

'13. 7.16. DVD観賞



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