『ホワイトハウス・ダウン』(White House Down)
監督 ローランド・エメリッヒ


 先ごろもうひとりのシェイクスピアを観て大いに感心したローランド・エメリッヒ監督が、得意のフィールドで本領を発揮しているのを観て、過去のエンタメ作品群へのオマージュともパクリとも感じさせない伸びやかな援用感覚を改めて大したものだと思った。作品に王道的なメッセージを込めることを怠らない部分を含め、類型的と言えば、この上なく類型的とも言える造りのなかで、エンタメ映画の原点のような楽しみをストレートに与えてくれるから、僕は彼の作品群が気に入っている。映画日誌を綴っているのはデイ・アフター・トゥモロー['04]一作しかなかったりするのだが、『インディペンデンス・デイ』['96]からこのかた『GODZILLA ゴジラ』['98]を除き、観た作品のいずれにもA評価を付してきたなかでも、本作が一番気に入った。

 序盤で背景的にTVで流れる大統領の演説がいい。「撲滅すべきは敵ではなくて貧困で、中東に巨額の戦費を投じてきたものを食糧と医療と教育に投じれば、平和は訪れる。ペンは剣よりも強し、なのだ。」との理想主義は、トップリーダなればこそ捨ててはならないものだと思う。トップリーダーでなければ、理想主義だけでは現実に対処できない部分も含めての対応に身をやつすのは止むを得ないが、トップリーダーがそれをしてはいけないとしたものだ。

 それは差別の問題とも同じで、人間社会なればこそ決してなくなりはしないことを論拠に“現実離れした理想主義だから”として捨て去ってはならないものだと思う。しかるに昨今は、トップリーダーが自らトップリーダーの役割を降りて、現実主義者たろうとするから、世の中がおかしくなってきているような気がする。いささか古典的に過ぎる体裁のエンタメ作品である点が、却って新鮮で、似たようなタイトルの今夏作品『エンド・オブ・ホワイトハウス』の施した悪役設定とは全く異なる黒幕設定に、良識と志の違いを如実に感じた。

 政治おたくのしっかり少女エミリー・ケイル(ジョーイ・キング)がソイヤー大統領(ジェイミー・フォックス)を英雄視するようになった契機のエピソードがよく、大統領のキャラが立派で気分が良かった。合衆国大統領という重責に就く公務としての構えを支えている個人的な人格を垣間見せる部分に、大いに納得感があった。また、『ダイ・ハード』のマクレーン刑事然としたタフガイのジョン・ケイル(チャニング・テイタム)の大統領警護官志望動機がそれに見合ってなかなかよく、ジョンと大統領が交わす会話も非常に気が利いていたように思う。

 大統領が最初に小声で言った「幼い娘にそういう見え透いた嘘はつくな」との叱責は、瓢箪から駒になる形で最後まで効いていたし、ペンが剣並みの武器となって敵方に一矢報いる場面がきちんと設えられていた。また、なぜ大統領選に出ないのかとの取材インタビューを受けてイーライ議長(リチャード・ジェンキンス)が「このポジションが気に入ってるんだ」と答えていた序盤の台詞にも、エミリーが父親に見せようと6週間も練習したのに観に来てもらえなかったという旗振りにも、きちんとオチがついていた。エンタメ作品には、こういう練り上げと迫真性さえあれば、リアリティなんぞ全く必要ないのだが、その見本のような作品だったような気がする。ホワイトハウスおたくのツァーコンダクターといい、テロリストの面々といい、情報部や軍の連中といった脇役たちのキャラも立っていて、非常に分かりやすく且つ緊迫感があったように思う。

 それにしても、エミリーの旗振りの場面は良かった。字幕では大統領旗となっていたが、僕には国連旗のように見えた。ホワイトハウスなのだから大統領旗なのだろうが、青色ではなく水色の旗だったので国連旗に見えた。大統領が彼女に覚悟を迫る場面ともども、リアリティから程遠くとも、やはりエンタメ作品は、こうでなくっちゃいけないとの思いを新たにした。

 戦争をしたがり、続けたがっているのは誰なのかということは、もうひとつのアメリカ史に限らず指摘され続けていることなのだが、一向に変わらずに、マーティン・ウォーカー(ジェームズ・ウッズ)たちのように利用される連中が後を絶たないのが情けない。遺恨や野心といった感情そして金、人間というものは、本当に、この二つに弱いと改めて思う。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1910521471&owner_id=1095496
by ヤマ

'13. 8.23. TOHOシネマズ5



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