『デイ・アフター・トゥモロー』(The Day After Tommorow)
監督 ローランド・エメリッヒ


 半ば水没し、凍りついた自由の女神像が、『猿の惑星』の砂浜に倒れた女神像のように語り継がれることになるだろう、と言えるまでの作品かどうかは心許ないけれども、堂々たるスケールの映像とシンプルなドラマ展開の力強さが、どこかスペクタクル映画の原点とも言うべき郷愁を満足させてくれるところがあって、けっこう気に入った。何と言っても、実にオーソドックスな作りなのがいい。CG抜きには作り出せないような圧倒的な映像なのに、奇を衒ったところがいささかもなく、これみよがしの映像演出ではないのがいい。
 大テーマとしての環境問題と小テーマとしての家族愛に絞り込んだ構成は、近頃目にすることが増えてきた“グローカリズム”なる珍妙な言葉を想起させたが、身辺雑事に囚われがちでグローバルな問題に関心を寄せたがらない“ミーイズム”を古典的スタイルの映画作品によって問い直す効用さえあるような気がした。昔の娯楽大作の映画では、科学者というのは決まったように人類の叡智の体現者として登場していたものだが、近頃は専門馬鹿かマッド・サイエンティストとして登場することのほうが多くなっていたような気がする。合理主義礼賛に伴う科学信仰とともに扉の開いた20世紀だったように思われるが、世紀末には科学が人類の幸福に寄与するものなのか否かにおいて、すっかり信用を失っていたように思う。だから、古代気象学者のジャック・ホール(デニス・クエイド)やラプソン教授(イアン・ホルム)がヒロイックに描かれるところにも古典的スタイルを感じたのかもしれない。
 圧倒的な自然の猛威に対して、この映画が人間同士のなかに悪役らしき悪役を配置せずに臨んだのは、おそらく葛藤色の強い人間ドラマを持ち込むことで自然対人間の構図を散漫にしたくはなかったからなのだろう。悪役の存在によって被る災難が何一つないままのほうが、自然の猛威に対する人間の無力さが際立つとしたものだ。自然以外の生きた厄災は、せいぜいで飢えた狼くらいのものだった。そんななかであからさまに批判の対象とされていた唯一の生き物が合衆国副大統領だったのが妙に可笑しかった。金儲けのことしか頭にないようなチェイニー副大統領の不人気ぶりが偲ばれる。見た目もよく似ていたように思う。だが、映画開始早々に“京都議定書”の名を出すことについては、それが二酸化炭素排出量の最大国であるアメリカが批准しないことへの異議申し立てなのか、それともこの作品がアメリカ映画であるがゆえに準備したエクスキューズなのか、ちょっと図りかねるくらいの扱いでしかなかった。そのことは取りも直さず、作り手にとっては、前述の大テーマや小テーマより何より、古典的スタイルの大スペクタル映画を撮りたいとの思いが一番だったということを示している。しかし、そのあたりの率直さも却って気持ちよく感じられるほどにシンプルで力強い造りだった。そして、そういう作品にふさわしいクラシカルな男伊達の主人公が用意され、キャラとして誰もが納得のデニス・クエイドがキャスティングされているのだから、王道中の王道作品というべきところだろう。
 それにしても、少なくとも僕が子供の時分とは気候が明らかに変わってきていると実感できる状況にはあるだけに、地球温暖化というのは、実際問題としても今世紀の人類最大課題であることに間違いないのだろうと改めて思った。
by ヤマ

'04. 6.17. 東宝1



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