『合衆国最後の日』(Twilight's Last Gleaming)['77]
『カリフォルニア・ドールズ』(...All The Marbles)['81]
監督 ロバート・アルドリッチ


 ロバート・アルドリッチの監督作品は、『北国の帝王』['73]も『ロンゲスト・ヤード』['74]も公開時に観て気に入っていたのだが、昨年リバイバル公開となったこの2作は、ともに観ていなくて、今回が初見だった。先に観た遺作『カリフォルニア・ドールズ』と比べ、大統領専用機に乗り合わせた乗務員以外は只の一人も女性が出て来なかったような気のする『合衆国最後の日』が断然よくて、やはりアルドリッチは男の映画にて本領を発揮するのだと改めて思った。

 それにしても、『合衆国最後の日』['77]は、たいしたものだ。衆目の認める優秀な軍人ながらも、上層部の意向に逆らって重大機密を告発しようとしたことから、将軍への昇進という飴や謀略による服役という鞭をくらったローレンス・デル(バート・ランカスター)が、脱獄仲間の二人と合わせた僅か三人で核クーデターを起こすという破天荒なエンタメのなかに盛り込まれた気骨に痺れた。

 舞台となった'81年のアメリカ大統領というのは確かレーガンじゃなかったっけ?と思いながら、犬死と知りつつ大量の米兵をベトナム戦争で死なせた“威信”方針に憤慨する大統領(チャールズ・ダーニング)の姿に、痛烈な皮肉を感じた。そして、軽い言葉で“威信”を唱える安倍総理に、いまイチバン見せたい映画だと思った。加えて、大統領側近による機密会議という内輪の場でさえ、ベトナム戦争に絡めてナチスを持ち出したメンバーに対して皆が大顰蹙の目を向ける姿に、いまイチバン麻生副総理に見せたい映画だとも思った。

 どことなくクリントン大統領を偲ばせる愛嬌を見せつつも、真摯に苦悩し、自分の不始末ではない過去の大統領の残したツケをなぜ自分が払わねばならないのかと憤慨しながらも、最後には身を挺する覚悟を決める大統領の言葉には重みがあったし、彼自身を含めて登場人物の誰しもがその職の重みに敬意を払っているように感じられたところに、ある種の羨望感を促された。

 デルが要求する機密文書の公表に対する会議メンバーの意見が一様ではなく、単純に空気を読むなどという姑息さにかまけていない点にも羨望感を覚えた。討議が討議として成立していることを羨ましく感じるのも情けない話だが、現実の組織では最高会議に近づくほどにそれが難しくなるのは、かつての日本の御前会議を思い起こすまでもなく、大いにありそうなことだと思う。だから、この機を逃してディスクロージャーのときはなく、もうそろそろ国民を信頼できる時期に来ているとする意見が出て、大統領の意を酌もうとしたりすることに対し、そのような方針転換が図られたら、国務省は仕事ができなくなると言う国務長官とか、公表などできるわけないと言い出すCIA長官がいて、大統領は揺れ動くのだが、リベラルな討議というのはまさにそういうことではないかと思う。だからこそ、後のイラク戦争のときにでっち上げられた大量破壊兵器の存在と同様に、確たる証拠もないのに、都合のいい願望に過ぎない情報でしかないものに乗せられてしまう姿に真実味があったような気がする。

 デルがミサイル発射の最後の鍵を入手しているというのは張ったりだと断言する軍トップの発言の論拠のお粗末さを露呈させていた場面がなかなか秀逸で、デルが9発の核弾頭付きICBMを地下格納庫から地上に迫り出させた実力行使に狼狽する首脳陣の姿に迫真力があった。非常に重要な場面で、あのような願望に過ぎない出任せを言う人物が、責任ある立場においても、必ずいるとしたものだが、その職の重さが却ってお粗末さを覆ってしまうのもよくある話で、最近では我が国の福島原発事故問題で全く嫌になるほど見せつけられたものだ。

 機密文書となった“威信”方針の威信が国家のものであれ軍のものであれ、とどのつまりは、威信の名のもとに彼らが守ろうとしているのは己が権力に過ぎない。それは、デルの相棒となった脱獄囚のパウエル(ポール・ウィンフィールド)が看破していたとおりなのだが、黒人の彼の名がパウエルであったことも、捏造された大量破壊兵器問題を国連安保理で訴えた黒人初の国務長官を先取りしていたようで、偶然にしても出来過ぎているような気がした。

 また本作は、先ごろ観たばかりのオリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史に描かれていた戦後アメリカ史のエッセンスを捉えた作品でもあり、本作のセリフにも出てくる“広島”以後の核傘下での制限戦の不毛から抜け出せない苦衷が炙り出されてもいたことに感銘を受けた。ソ連に対抗してベトナムへの本格介入を始めたアイゼンハワーの名が機密会議の場でも恨めしく口にされていたが、奇しくも『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』の第五回は、ずばり“アイゼンハワーと核兵器”というタイトルだった。

 最も痛烈だったのは、神輿となって担がれる大統領という職は、その権力の頂点にあるようでいても何のことはない、権力構造を支え牽引するアンカーのようなものにすぎず、必要とあれば、抹殺されたりすることを描き出していた点だろう。10話にも及ぶ『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』を観て、僕が「結局のところ、保守の共和党であろうが、リベラルとされる民主党であろうが、ひとたび政権担当者になると、外交面では戦後アメリカ主義すなわちタカ派帝国主義の呪縛から逃れられなくて、カーターやオバマさえも外交戦略を変えられずに、わずかに勇気ある方向転換を試みようとしたケネディは暗殺されたというふうに総括しているような気がした。」と日誌に綴ったようなことを、元軍人デルによる核クーデターというエンタメに率直に盛り込んでいることに大いに感心した。

 そして、エンドロールを観ているなかで、'77年作品だったことを知り、近未来との設定で描いていたのかと改めて唸らされた。'77年ならカーター政権発足時だから、まさか“強権”レーガン政権の誕生を予測してはいなかったと思うが、強権を続けるか国民に開示して方針転換するかを迫られ苦悩する大統領の姿を描いていた本作からは、今になって振り返ってみると、一層の含蓄が浮かび上がるような気がした。

 少々残念に思ったのは、僕の初見が言うところの“最長版”になってしまったことだ。2時間26分かけた最長版よりも20分ほど短かったらしい当時の劇場公開版のほうが映画的には引き締まっていたのではないかという気がする。映画という表現の核心は編集にこそあるというのが僕の思いなので、長けりゃいいということならラッシュフィルムがベストということになりかねない“最長版”なんぞには、あまり意味を感じない。


 もうひとつの『カリフォルニア・ドールズ』['81]のほうは、逆に同時代で観ていたら思わず快哉を挙げたのかもしれないが、鳴り物入りのリバイバルという形での公開に割り引かれたのか、僕には、さほどのものとも思えなかった。 いちばんの難点は、カリフォルニア・ドールズたちがドサ回り的な泥レス興行にまで落ちていたところから這い上がる契機が、雑誌での思いがけない取り上げられ方(古い写真での)だとか、エディ(バート・ヤング)への色仕掛けプロモートによるチャンスの獲得とかによるもので、妙にカタルシスが得られにくい運びになっていることだったように思う。

 千載一遇のチャンスにハリー(ピーター・フォーク)が場内の観客を味方につけるべく渾身の演出をかけるわけだが、いかさま博打で大金を得ていたとはいえ、よくそんな金と時間があったなぁと思いつつ、それが奏功したというよりも、あまりにあくどいエディのレフェリー買収が観客の判官びいきを誘ったように思えて、チャンピオン・ペアの試合運びぶりのほうが何だか妙にわざとらしい展開だったような気がした。とはいえ、最後には、ハリーが繰り返し強調していた回転逆エビ固めが功を奏したのだから、ハリーは、やはり名マネージャーということになるのかもしれない。

 思いがけなかったのは、ミミ萩原ではないかと見えるレスラーが出ていたことで、エンドロールを気にしていると、ミミ萩原のクレジットではなく、TAEMI HAGIWARA とのクレジットが出てきた。本名なのかもしれない。クレジットで言えば、オープニング・クレジットでのバート・ヤングの破格の扱いが何だか驚きだった。そこまでのスターだったのだろうか。

 また、三十年前の女子プロレスを観ながら、最近はさっぱり耳目を集めなくなっているが、日米ともにそうなのだろうか、とか、十五年近く前のインド映画特集の日誌でも触れた、いわゆるWAM(ウェット&メッシー)テイストの本流とも言える泥レスのほうはどうなっているのだろうか、とかいった思いがよぎった。あんがい下衆な泥レス興行のほうが根強かったりするのかもしれない。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/13080401/
by ヤマ

'13. 7.28.& 8. 7. あたご劇場



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