『華麗なるギャツビー』(The Great Gatsby)
監督 バズ・ラーマン


 レッドフォードとミア・ファローによる四十年前の映画化作品も同時代で観た覚えがあるものの、さして惹かれぬどころか、自堕落な金持ち階層の厭らしさや貧者がハイソに憧れることの哀れが、妙に鼻白む観後感を残した記憶があって、本作もあまり食指が動かなかったのだが、ムーラン・ルージュ['01]やオーストラリア['08]のバズ・ラーマン監督作だと知って、観に行く気になった。

 タイトルになぞらえれば、華麗なのはギャツビーではなく、バズ・ラーマンの画面だと改めて思った。ときに外連味の勝ち過ぎる演出の遣り過ぎ感に呆れながらも、画面の色合いの鮮やかな華美加減は、やはり魅力的だ。

 だが、ニック(トビー・マグワイア)の語りが何とも鬱陶しかった。トビーの声質が、僕には合わないからなのかもしれない。また、トム(ジョエル・エドガートン)のチョイ悪オヤヂ風の上流階級人的野卑のようなものも、妙に気に障った。

 しかし、何と言ってもデイジー(キャリー・マリガン)のキャラクターの始末の悪さが、年嵩を経た今観てもなお、ギャツビーの執着に対する違和感にしか繋がらない。キャリー・マリガンは、これまでに僕が観た彼女の出演作のなかでも抜群のフォトジェニックを発揮していたように感じたが、何ともタチの悪い女に思えて仕方がなかった。当人に振り回している自覚がない分、よけいに始末が悪いのだが、そうと判っていても、気分次第の彼女の気分それ自体には嘘がないように感じられるから、後を引くわけだ。大胆なようでいて物怖じする儚げな様子がまた堪らなかったのだろう。ギャツビーを演じたレオナルド・ディカプリオのオーバーアクトが、派手な画面に妙に似合っているのが笑えた。

 フィッツジェラルドの原作は未読だし、彼の著作は『雨の朝パリに死す』を表題作とする角川文庫が書棚に1冊あるだけで十代の時分以来、読んでいないのだが、僕の好みには合いそうにないと思った。そしたら、友人の女性が感想文にギャツビーだってデイジーその人を愛しているわけではない。彼が必死で追い求めてきたのは、手を伸ばせば届きそうだったのに永遠に失ってしまったもの。「年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来」だ。と書いてあった。そして、ギャツビーとトムとの対比のなかで何でもラクに手に入れてきたトムには“欲しいもの”がない。欲しいものを持っているギャツビーが妬ましく、この俺サマがそんな男に負けてたまるか! という危機意識があったのではないだろうか。と指摘していた。

 僕が見過ごしていたポイントのような気がして痺れた。本作は、ギャツビーも含めデイジーにしろトムにしろ、“喪っているもの”への向かい方を観るべき作品だったようだ。さすれば、再び獲得することを“生きる力の糧”になし得ていたのは、ひとりギャツビーのみだったわけで、それゆえ彼はグレイトだったということなのだろう。確かに、デイジーのタチの悪さに翻弄されるギャツビーの蒙昧に囚われて観るより、格段に趣がある。

 分水嶺となったのは、友人がデイジーのデリカシーについて言及していた場面だったような気がした。彼女は、富裕者の仲間入りをしたギャツビーの屋敷をデイジーが初めて訪れ、やおら泣き出したことに対して「未来が輝いていた青春の日々の記憶であり、そこから遠く隔たった今の自分への憐憫」が心に去来したからだろうと解していたが、そのような視点を得れば、ギャツビーやトムも含め、登場人物の見え方が違ってきたのかもしれないと思った。



推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20130620
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1907546710&owner_id=3700229
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1905147851&owner_id=425206
by ヤマ

'13. 7.19. TOHOシネマズ1



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