『愛と希望の街』['59]
監督 大島渚

 今年一月に逝去した大島監督の追悼上映として取り上げたという説明のあった監督デビュー作を初めて観て、いささか驚いた。わずか62分のなかに、深くて濃密なドラマが若々しい力とともに宿っていて、大いに心打たれたのだ。映画そのものの出来栄えもさることながら、貧困の克服が社会問題としての最重要課題だという認識が共有されていた時代の作品だというふうに感じられたことが作用している部分もあるかもしれない。

 軽度ながら知的障害により学校へも行っていないと思しき妹を抱えた貧しい母子家庭の少年正夫(藤川弘志)が、まだ父親がいた頃に思わぬ金が入って買ってもらい大事に育てている伝書鳩を、母親(望月優子)に命じられて売りに出し、買い手の不注意で帰巣した鳩をまた売るという行為を重ねていたことで、業績伸長の著しい電機メーカーへの就職をふいにしてしまうわけだが、社会矛盾としての貧困問題は個人の善意や厚意では解決できないことを痛烈かつ瑞々しく描いていて感慨深かった。

 人の善意というものについての意味と限界に誠実に迫っていた気がする。病気の母親に代わって健気に靴磨きに勤しむ正夫の毅然とした清冽さに惹かれて鳩を買い上げるばかりか、何かと面倒をみようとしていた女子高生の京子(富永ユキ)にしても、息子の成績のよさに母親が高校進学を望むなかで正夫自身は就職を希望していることからより良い就職口を斡旋しようと奮闘していた中学の担任秋山(千之赫子 )にしても、あるいは妹や秋山から熱心に求められ頼りにされるからとばかりは言えない社会問題に対する意識を持っていた勇次(渡辺文雄)にしても、個人的に果たせる精一杯を尽くそうとするわけだが、目前の誰の責をも問えない壁に阻まれる。

 誰ひとり悪意に満ちた人物が登場しないなかで、やむなく至った結果に対して、勇次が「僕たちのこととは別問題だ」と論理的には極めて正当な主張をするも、秋山が「それはそうでも私たちの間に横たわっている隔たりには余りにも大きなものがある」として、交際を断たざるを得ないと受け止めるほどに重大な問題だということなのだろう。たいした作品だと思った。これを秋山の感傷で済ませてはいけないとする作り手の視座が窺えるように感じた。

 五十路半ばにある僕が満一歳のときの映画なのだが、こういう作品を観ると、「頑張った者が報われる社会(仕組み)」などという欺瞞に満ちたキャッチコピーのもと、富裕者層に対して手厚い経済政策を打ち出すことばかりに執心する政権への憤懣がたぎってくる。撃ち殺されなければならないのは、貧者のささやかな慰めであった鳩ではないのは無論だが、少年に非を求めるわけにはいかないことを十分に承知していればこそ、鳩に矛先を向けるしかなかったブルジョア兄妹たちでもない。事情を察知しつつも情実で正夫の入社を認めるわけにはいかない組織的統治を司る当事者である人事担当者でもない。撃つべきは、市井の人々の個々の場面での対処や判断ではなく、まさしく“仕組み”を構築する権力者のなかに巣食っている強欲なのだと改めて思った。




推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/aitokibou.htm
by ヤマ

'13. 7.22. 龍馬の生まれたまち記念館



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