『オーストラリア』(Australia)
監督 バズ・ラーマン


 人が生きるのは、物語を得るためであり、財貨や愛もそのための道具に過ぎなくて、それ自体を目的にしてしまうと、それらは費え失われる宿命に有らばこそ、人の生そのものが空しくなるとでもいうようなメッセージが早々に開陳されることをどう受け止めるかで、好みが分かれそうな作品だった。

 物語の構造としては、アボリジニの世界から“ウォーク・アバウト”に出ていたナラが見届けた、英国貴婦人のレディ・サラ(ニコール・キッドマン)と牛追いを意味する名のドローヴァー(ヒュー・ジャックマン)の恋と、彼らに出会い育まれた記憶を語るナラの物語ということなのだろう。映画の最後に、ナラが衣服を脱ぎ捨てて祖父キング・ジョージとともにアボリジニの世界に帰って行く姿によって、彼が“ウォークアバウト”を終えたことを示す形になっていたのだから、そういうことだという気がする。また、物語を得たナラが長じてから語る少年期の記憶を描き出す形をとることによって“物語のイメージ性”が強調され、通常のリアリズムのほうに寄り添う話法や展開とは趣を随分異にしていたわけだが、僕にとっては、不思議感の漂う落ち着きの悪さが妙に心地よい、面白い味のある作品になっていた。

 ナラのウォークアバウトには、どこかネイティヴ・アメリカンのビジョン・クエストを想起させるところがあって、どちらも、その旅や儀式それ自体に意味があるのではなく、そこで得られる“体験”のためのものだったような気がする。そして、どちらも自分や人生に対する新たなビジョンや神秘、あるいは語り草たり得る人との出会いというものを必要とする人生の時々に、それらを得るために然るべく行われていることなのだろう。人生それ自体が旅に喩えられるものでもあるが、異世界に身を置く旅というものは人にとって意義深く、とりわけ一人旅は大きな意味を持つように思う。ほんのささやかな一人旅ではあったが、僕自身においても、高校一年の夏に野宿を交えて三日間、スケジュール計画のない自転車旅行をしたことや、大学を卒業して東京から高知に戻る際に50ccバイクで宿も決めないままに五日かけて一人旅をしたことで得られたものの掛け替えのなさについては、四年前に綴ったモーターサイクル・ダイアリーズ』の日誌でも言及したところだが、五十歳を超えた今になってもなお、いささかも色褪せていない。ナラのウォークアバウトは、そんなものとは比較にならないダイナミズムを備えていて、ある意味、『モーターサイクル・ダイアリーズ』に描かれた若き日のチェ・ゲバラが得た物語やビジョンを与えた旅以上のものがあるようにさえ感じられた。

 そして、そこに浮かび上がっていたのは、財を残すことより、心象の中にくっきりと姿を留め、語られるに足る人物であることのほうに値打ちがあることを体感させるような作り手の人生観であり、先住民アボリジニへの憧れと敬意だったような気がする。それと同時に、霊力を有するガラパである祖父を継ぐナラにとっては、レディ・サラとドローヴァー、そして、キング・ジョージと呼ばれる祖父こそが、まさしくそういう人物だったわけで、彼らとの出会いによってナラが“語るに足る物語”を手に入れていることがマジカルなイメージとともに描かれていたように思う。とりわけ、ナラのなかには自分を見守り続けてくれている祖父が常に存在していることをしみじみと感じさせてくれたのが印象深く、その距離感というものが上手く視覚化されていたように思う。

 そして、人生において、物語と共に必要なのは、それを彩る“歌”であるとのメッセージもあったところが、いかにもバズ・ラーマン作品らしいというか、似合っているように感じられた。エンドロールのバックに流れていた曲に、聞き覚えのある「ワルチング・マチルダ」の変奏が入っていたから、きっと何かあるだろうと思って調べてみたら、オーストラリアの国歌にしようとの提案が何度もされたことがあるとの曰くが付いていた。しかも、ワルチングの意味するところが“踊り”ではなくて、“あてなくさ迷い歩くこと”であるらしいことを知り、さすがバズ・ラーマンだと思った。この映画の原案は、むしろこの曲から始まっていたのではなかろうか。だから、ドローヴァーであり、西部劇テイストで繋ぐようにしてのネイティヴ・アメリカンのビジョン・クエストとアボリジニのウォークアバウトの照らし合わせだったような気がする。



推薦テクスト:「olddog's footsteps」より
http://pia-eigaseikatsu.jp/imp/23304/487137/
by ヤマ

'09. 3.24. TOHOシネマズ4



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