『ミッドナイト・イン・パリ』(Midnight In Paris)
監督 ウディ・アレン


 良くも悪くもウディ・アレン臭がつきまとう台詞に苦笑しつつ観ていたが、ふと自分には不変の憧れの対象となる“ゴールデン・エイジ”なんぞないことに少し淋しさを催されるところがあって、昔から1920年代を中心とするエコール・ド・パリの時代への憧れを作品に込めてきて変わることのないウディ・アレンを少々羨む気分になった。

 十代の時分には“政治の季節”たる'60年代への憧憬を抱いた覚えがあるし、二十代の時分には大正ロマンや大正デモクラシーの時代に惹かれた記憶もあるけれども、ギル(オーエン・ウィルソン)の憧れたエコール・ド・パリの時代を謳歌しているように見えたアドリアナ(マリオン・コティヤール)が、自身の憧れる19世紀末のベル・エポックの時代に住み着き、現在に戻ったギルが婚約を解消してパリに留まったような形で、長らく強い憧れを抱き続けるような時代も土地も、僕は持ち合わせていない。

 ここではない異境、今ではないゴールデン・エイジへの憧れを“現実逃避や懐古趣味に浸るロマンチシズム”とはせずに、今を生き直す力として肯定する本作の視線は、僕が二十代半ばのときに観たカイロの紫のバラ['85]で描かれていた“現実のほうから食らう痛烈なしっぺ返し”とは正反対のものだった。ちょうど当時の映画日誌に「ある意味で作り手であるウッディ・アレンの限界を示しているようでもある。この作品、楽しく面白いままで終らせても決してたわいない作品にはならないのに、ウッディ・アレンとしては捻らないではいられないのだろう。せっかくの基調を貫いて貰いたかったが、才気が邪魔をしたようである。この作品において光っているのは、結末の辛さではなく、映画への夢と憧憬を語っている部分」だと記していたことへの回答を三十年後にもらったような気分になった。『カイロの紫のバラ』で現実の側の存在だったギルと本作の主人公の名前が一致しているのは、単なる偶然ではないような気がする。

 それにしても、見知らぬ集団に誘われるままに車に乗ったギルが、パーティで憧れの作家と同名のフィッツジェラルド夫妻やヘミングウェイと出会い、コール・ポーターらしき男が弾くピアノを見て、主催者の名前がコクトーだと聞かされても半信半疑だったのが、次に連れて行かれた店でジョセフィン・ベイカーの歌い踊る姿を観て目を丸くする場面までの運びが、かなり小気味良くて大いに感心した。

 また、ブニュエルにギルがアイデアを与えていた皆殺しの天使['62]は、個人的にも思い出深い作品で、ブニュエル好きの僕としては、何とも嬉しかった。そして、ダリのサイも可笑しかった。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1851562947&owner_id=3700229
by ヤマ

'13. 2.28. あたご劇場



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