『カイロの紫のバラ』(The Purple Rose Of Cairo)
監督 ウッディ・アレン


 文学・絵画・造形・音楽・演劇などさまざまな表現メディアのなかにあって、そのメディアそのものや、その所産への愛情ないし思い入れ自体が表現のモチーフに成り得るものは、意外に少ない。映画という表現メディアは、歌とともにそれを果たせる少数派だが、そこに共通する特質は、それらが優れて大衆文化の担い手だということである。

 この作品においても、作り手の映画への愛情や思い入れの深さが、セシリアというしがない主婦の映画に抱いている夢と憧憬を通じて描かれる。映画のなかの人物がスクリーンから抜け出てきて、金にも男にも恵まれないセシリアに恋を囁くという着想自体には、それほどの奇抜さや新鮮さは感じないが、映画のなかから一脇役が抜け出したために映画のほうにも起こる混乱の顛末は、登場人物が抜け出るという着想以上に、『映画は生きている』というメッセージに溢れている。また、抜け出てきたトムがラヴ・シーンになってもフェイド・アウトしないことを不思議がったり、殴り合いをしても髪一つ乱れないことを保証したり、或は、他の登場人物がトムのように抜け出ようとするとガラス窓に顔を押し潰されたようになって出られなかったり・・・etc、という着想を最大限に活かした周辺のエピソードが、気が利いていて、面白く楽しい。

 かくして、トムの出現によってきたした現実の混乱を収拾すべく、トムを演じた俳優ギルが現われ、二人の間でセシリアを巡る恋の鞘当てが展開される。満たされぬ現実のなかでの唯一の慰めである、映画への夢と憧憬の深さ故にその実現を得たかのように見えたセシリアであったが、ギルとトムのどちらを選ぶかという選択、つまり、現実か、それとも夢と憧憬かというなかで、後者を捨ててしまい、ひどいしっぺ返しをくらわされる。映画という夢と憧憬を生きる支えにしてきたセシリアにしてそうであるように、実際に手の届くところにまでくると、常に人間は、夢や憧憬を捨てて現実を取ってしまうのだが、そのことは、しっぺ返しも含めて人間には、かなり普遍的なことである。

 人間にとって、現実とは己を裏切るものであり、夢や憧憬は己が捨ててしまいやすいものである。この作品においても、結末は、結局そういった現実の側へ落ち着いてしまっている。これをもって辛口の結末として評価する向きもあろうが、全編通じて映画への夢と憧憬の側に立っておいて、結末でいかにも寓話めいた教訓とともに現実の側へ落とされるのは、足元を掬われたようで気持ちの良いものではない。せっかくの基調を壊してしまっただけである。

 楽しく面白い映画を楽しく面白いままに終らせられないのは、ある意味で作り手であるウッディ・アレンの限界を示しているようでもある。この作品、楽しく面白いままで終らせても決してたわいない作品にはならないのに、ウッディ・アレンとしては捻らないではいられないのだろう。せっかくの基調を貫いて貰いたかったが、才気が邪魔をしたようである。この作品において光っているのは、結末の辛さではなく、映画への夢と憧憬を語っている部分であり、しかも、この作品の時代設定がそのまま物語っているように、今やかつてのように映画が人々に夢と憧憬を与え得なくなっていればこそ、余計にそう思われる。とはいえ、やはり孤独はウッディ・アレンの真情であるということなのかもしれない。
by ヤマ

'86. 6.11 有楽町ニュー東宝シネマ2



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