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『草原の椅子』 | |||||
監督 成島出 | |||||
監督の椅子、重役の椅子など椅子にもいろいろあるわけだが、社会を構成する最小単位とされる“家族”をも含めた一切の社会性を剥ぎ取って、単に人としてのだだっ広い草原に置いたとき、各人の座わる椅子が、富樫(西村雅彦)の父親(井川比佐志)の誂える椅子のような座り心地の良さをもたらしてくれることは概ねなくて、寄る辺なく、椅子自体が見当たらない有様になりかねないのが実人生としたものだ。だが、取りあえず椅子自体はあるとする楽観性を前提とした枠組みのなかで、より確かな椅子の存在を信じて求めていくしかない決意を新たにするという物語だったように思う。 ある意味、富樫の存在のリアリティが鍵を握るような物語だったが、さすが西村雅彦だ。五十路男の遠間(佐藤浩市)にとって、ファンタジックなまでの出会いと縁のもたらされる物語そのものに納得感をもたらしていたのは、かなり無理のある富樫の人物像に説得力を与えていた彼の演技に負うところが大きいような気がした。 愛人から灯油を浴びせかけられて難儀を蒙った富樫が序盤で遠間にぼやいていた“魔が差した”という言葉が印象的だった。それで片づけてはいけないことながら、そして、そんな言葉では片付けられないことを百も承知ながら、“魔が差したこと”として砂漠に埋めてくるほかに片づけようのないことが人生にはあるということなのだろう。貴志子(吉瀬美智子)においては、旧家の跡取り息子との結婚なのだろうし、遠間においては、妻(若村麻由美)を他の男に走らせた、自身の親の介護を妻に負わせていた最中に繰り返したいくつかの浮気なのだろう。富樫においては、後に「東京進出」こそが最大の“魔”とされるのかもしれない。 取り返しがつかず取り戻しも利かない不始末を“魔”という言葉の元に封じ込める呪術というのは、古くから日本人が愛用してきた生き延びるために必要な知恵なのだ。易きに流れて然したる自省もなく逃げ口上に使うのか、自問自答を繰り返して何が起こり何を為し得たかの反問を重ねたうえで最後の最後の始末に使うのかは、その人の品格の問題であって、呪術としての“魔”自体の問題ではない。例えば、四歳になっても人に向けて普通に言葉を発することができなくなっている幼い圭輔(貞光奏風)に対して母親(小池栄子)が二年前に執拗に繰り返していたと思しき虐待について、その言葉を使ったとしたら、とうてい承服できないであろうニュアンスを対照させていたところが効いている。『接吻』以来、しばしば見かけるようになった小池栄子のファナティックな怖さを湛えた演技は相変わらず達者なものだ。 それにしても、カメラメーカーの営業部門における局次長の職にある遠間にしても、カメラの量販店をチェーン展開している社長職にある富樫にしても、五十路男の負ってる重荷が何だか気の毒だったが、ファンタジックなまでの出会いと縁に恵まれる果報を得たのだから、良しとしなくてはなるまい。“別嬪、誠実、淫蕩”の三つの星を備えているようなと富樫の言う貴志子のほうから「それじゃあ、今晩抱いてください」と大自然のなかで迫られていたフンザの草原に置いてあった椅子は、誂えどころか古びた木製ベンチだったけれども、虫がいいほどに結構な話じゃないかと思った。 | |||||
by ヤマ '13. 3. 1. TOHOシネマズ4 | |||||
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